【養生訓の話・用薬】


下医の妄に薬を用て人をあやまるにまされり。故に病ある時、もし良医なくば、傭医の薬を服して身をそこなふべからず。只保養をよく慎み、薬を用ひずして、病のをのづから癒るを待べし、如此すれば、薬毒にあたらずして、早くいゆる病多し。死病は薬を用ひてもいきず。下医は病と脈と薬をしらざれども、病家の求にまかせて、みだりに薬を用ひて、多く人をそこなふ。
薬は両刃の剣。有益と有害を備えたものである。だからこそ、薬を熟知した良医の診断や投薬は欠かせない。傭医、下医とあるが、医者ではない無責任な治療家もこの範疇に入れるべきと思う。また、全くの素人判断と言わざるを得ない素人判断も被害を拡大させる。素人である親類、知人に善意で勧められたとしても、体や健康に関すること。必要のないものは断固ことわる知識や判断も求められる。

一定の技術レベルに達しない治療家、或いは守備範囲を逸脱した治療家から薬を処方されるくらいなら、服まないほうが良い。偶然、適中しても配慮の行き届いた薬ではないので反って有害な作用をもたらす事がある。緊急の時は然るべき医者の処置を受けなければならないが、漫然とした不調や、検査で多少の異常が見つかったからと言ってすぐ薬を求める必要はない。放置しておけば自然になおる病気は多い。薬を服用したばかりに、その副作用で生体に備わった自然治癒力をそこなうこともある。当然、治癒は遅れ、最悪の場合その薬によって新たな病気が生まれる。

死病といわれるものは、どんな療法や薬でも難しいものである。奇跡的治癒がないわけではないが確率は相当低い。末期癌などの病が簡単に治るという軽薄な宣伝を見聞する。治った症例をあげて有効性を主張するのはこの手の治療家の常套手段である。やはり治る確率は低い。西洋医学の侵襲的治療から遠ざかった分、被害が減少し治癒力が生かされる?とは言えるかも知れない。

病気になっても妄りに医者に薬をねだったり、安易に薬で解決しようとしてはいけないその前に薬なしで可能かどうかを考えるべきである。医者は患者が求めるから仕方なく処方したり注射をしたりする場合もある。「投薬しないとヤブ医者と言われるから。」とある医者から聞いた事がある。

病人に頼られる治療家は、時にプライドを捨て病人の利益を最大限確保しなければならない。診断のつかない病、治せない病を、明確に「解らない、治せない。」と告げる勇気もいる。正直である事は、恥かしい事ではない。

 
薬は皆、偏性ある物なれば、其病に応ぜざれば、必毒となる。此故に、一切の病に、みだりに薬を服すべからず。病の災いより薬の災多し。
日常の食物でさえ、食べ過ぎや偏食をすれば、体の不調を催す。自然界は全て人間に満点を頂くほど都合よく出来ていない。薬は更に性質が偏っている。薬草でも上・中・下があり、上薬は長期服用してもそれほど被害は少ない。しかし下薬は作用が強く短期に病毒を下せば、それ以上の服用は戒められている。新薬は薬草より更に作用が強力である。正負の作用が激烈に発現するものが多い。また薬草も投与量を増やし作用の度合いを上げれば、少量使う新薬より効果があり、副作用をもたらす事もある。

薬は適用を誤まると、副作用のみを引き受けることになるが、適用が正確でも副作用はついて回る。副作用より、病気の苦痛が大きいから、それを計って服用する。薬を服用する時は、この判断を正確にしなくてはならない。たとえ薬草茶であっても安易に飲み続けたり、大量に飲み続けるのは良くない。

益軒先生は、この項目で、「薬を不用して、養生を慎みてよくせば、薬の害なくして癒やすかるべし。」と言っておられるが、養生だけで追いつかない不調や病のあることも確かである。苦痛を抑え安らかな間に、自然治癒力を回復させたり、治癒を助けるための力を貸したりする薬は不可欠である。特に老人や抵抗力の落ちた病人には、養生だけでは無理がある。この見極めもまた「用薬の妙」である。

 
薬をのまずして、おのづからいゆる病多し。是をしらで、みだりに薬を用て、薬にあてられ病をまし、食をさまたげ、久しくいゑずして、死にいたるも亦多し。薬を用る事つつしむべし。
薬を服まないで自然に治る病気もあるが、服まないと自然に進む病気もある。服んで治る病気もあれば、服んで治らない病気もある。

いざ病気になれば、これが自然に治ると言う判断は容易につかない。苦痛が激しかったり、素人であればなおさらである。医療に携わる人でさえ、すぐ検査、薬、注射、、、と求める。服まずに捨てられる薬も含め、日本はアメリカの4倍近い薬を消費しているという。医者や薬屋も、もちろん一般の人も、薬に頼ることに洗脳されているのではないかと考えざるを得ない。苦痛が激しいなら、しかるべき医療は要するし、それに伴い薬の必要性も生じてくる。これまで否定するものではない。ただ日頃の些細な不調や不調が起らないようにと薬に頼るのは、一考の余地がある。

薬だけではない。食品だと信じ飲んだダイエット食品での痛ましい死亡事故は、記憶に新しい。薬や食、酒、煙草など健康に大きな影響を及ぼす物の宣伝広告は自粛されて良い。正しい情報を啓蒙するならまだしも、衣服や歌や車と同じようにファッション感覚で喧伝すれば、著しい不利益は誰が被るのであろうか。

 
養生の道はあれど、うまれ付かざるいのちを、長くする薬はなし。養生は、只うまれ付たる天年をたもつ道なり。古の人も術者にたぶらかされて、長生の薬とて用ひし人、多かりしかど、其しるしなく、かへつて薬毒にそこなはれし人あり。是長生の薬なき也。
寿命と言うのは、個々人の素質によるもので、決まっているのかも知れない。煙草、酒、あらゆる不節制をしながら、何ら重病もなく驚くほど長命の人もいれば、十分な健康管理の下、短命の人もある。「天命」と言う言葉が相応しいかどうか解らないが、どうやらその様な不可抗力の運命を誰しも背負っているのかも知れない。健康に関わる仕事を続けていると特にこの思いを強くする。

天命を健やかに全うするため養生があり、薬はあまり役に立たない。たとえ薬で長命を得ることが可能であっても、いくらか延ばすくらいで、逆に短くする事もある。薬も適用を正しくすれば、尽きる天命を救ったり、更に約束された天命まで生き長らえる事が出来るかもしれない。しかし、永遠に生き続ける訳には行かない。長生きの薬、不老長寿の薬など理想ではあっても現実にはありえない。ところが不老長寿の霊薬を販売する人は多い。ネット上を探してもおびただしい数である。紹介、販売している人が医者だったり、医学博士だったり、薬剤師だったりすると、その見識を疑わざるを得ない。さらに、それらの薬を信じて服んで被害を受けた人にあってはお気の毒としか言いようがない。健康も金銭も。

 
補薬は、滞塞しやすし。滞塞すれば害あり益なし。利薬を服するより、心を用ゆべし。もし大剤にして気塞がらば、小剤にすべし。或棗を去り生姜を増すべし。
 
補湯は、煎湯熱き時、少づゝのめばつかえず。少づゝのんで、ゆるやかに験を得べし。一時に多く服すべからず。補湯を服する間、殊酒食をすごさず、一切の停滞する物くらふべからず。酒食滞塞し、或薬を服し過し、薬力めぐらざれば、気をふさぎ、  腹中滞り、食を妨げて病をます。しるしなくして害あり。
 
利薬は、大服にして、武火にて早く煎じ、多くのみて、速に効をとるべし。然らざれば、邪去りがたし。局方曰、補薬は水を多くして煎じ、熟服して効をとる。
薬にはその作用が最も効果的に発揮される、剤形と投与経路がある。内服すべき薬を注射で投与しても副作用が出たり、効かなかったり、この逆もある。薬効は薬の持つ性質のみならず、それを適用する方法によっても変わってくる。薬学で薬剤学とか製剤学と呼ばれている。

薬草は一般的に煎じて服用するが、他に、散剤、丸剤、膏剤、丹剤、酒剤、、、などがあり、最近ではエキス錠剤や顆粒剤まである。煎剤もただ煎じるだけではない。水で煎じたり、酒で煎じたり、処方によっては煎じる時間や火加減の決まりもある。薬草の性質によっては、先煎、後下、包煎、別煎、沖服などの方法も取る。これも全て薬効の最大限の発現を期待しての事である。また食物や他の薬との相互作用、体の状態によっても薬の効果は影響を受ける。

ここでは補薬のことが述べられている。体力、気力が衰え栄養状態も良くないときは何とかして助けようと、血を増やしたり、消化機能を奮い起こすような薬草が処方される。所謂、滋養強壮薬というものであるが、滋養をつける薬草の性質は濃く粘りがあり胃腸にもたれる性質がある。脾胃の機能も落ちているので、なお一層、もたれ感は気になり、胃痛や吐気を催す事もある。このため更に胃腸薬を処方したり脾胃のもたれを防ぐ薬草を配合する治療家も居る。粘膩の食物が胃腸にもたれ脾胃の気を塞ぐことは飲食のところで既に書いた。薬でも同じ事が起るのである。補薬を服むときは食事もそれに対処できる注意を払ったほうが良い。早く元気になりたいと、補薬を服み、栄養があると勘違いして肉や濃厚な食物、ついでに砂糖水のような滋養強壮のドリンクなど飲めば、病の治癒どころか、病に追い討ちをかける事態を招く。

これだけの負の性質を認識した上で薬は服まなくてはならない。もたれる事によって吸収も遅れ、不快感も増す。そのため補薬は、薄く、少しづつ服み、煎じる時もゆっくり時間をかけ、火加減も弱くする。補薬は陰が多く、そのため長く煎じて陽を付し陰を緩め、陽性の気剤で陰の停滞を和らげる薬草を配合する。しかし、補薬はあくまでも薬であって食物ではない。生きてゆくための栄養は食物で摂取するしかない。どれほど滋養強壮薬を服んでも生命の維持は出来ない。

 
凡丸薬は、性尤やはらかに、其功、にぶくしてするどならず。下部に達する薬、又、腸胃の積滞をやぶるによし。散薬は、細末せる粉薬也。丸薬よりするどなり。経絡にはめぐりがたし。上部の病、又、腸胃の間の病によし。煎湯は散薬より其功するどなり。上中下、腸胃、経絡にめぐる。泡薬は煎湯より猶するどなり。外邪、霍乱、食傷、腹痛に用うべし。其功早し。
 
薬を服するに、五臓四肢に達するには湯を用ゆ。胃中にとゞめんとせば、散を用ゆ。下部の病には丸に宣し。急速の病ならば湯を用ゆ。緩々なるには散を用ゆ。甚緩き症には、丸薬に宣し。食傷、腹痛などの急病には煎湯を用ゆ。散薬も可也。丸薬はにぶし。もし用ひば、こまかにかみくだきて用ゆべし。
剤形により薬効や適応の違いがある。生薬を固めた丸薬は、服用後、徐々に溶解し吸収され薬効は持続する。下部まで達するので腸や腎又下腹部に多いオケツに使う。散薬は吸収が早く即効はあるが、持続的効果に劣るため臓腑経絡に達し難い。よく使う鎮痛鎮痙の四逆散は薬効の発現まで10分程度と早いが、薬効の持続時間は4〜5時間程度しかない。考え方によってはこれくらいあれば、充分ともいえる。続服しても問題はない。湯薬は漢方専門薬局の中心を為すもので、これが最も効果が期待できる。煎じる手間の分、得るものも大きいといえる。しかし面倒だったり、同居者が臭いを嫌ったりで躊躇する人も多い。真に苦しいときはその様な事は言って居られない。やがて軽快すると、手軽なものを求めたくなる。その時は丸・散薬、顆粒でも構わないと思う。

丸・散薬は一つに生薬の油性成分を効率よく摂取するための、製剤設計でもある。水ではなく酒での服用を指示されているものが多く、酒が胃腸のもたれを防ぐとともにアルコールで生薬中の油性成分を溶かす意味もある。

泡薬とは聞きなれないが、ひたし薬と読む。薬草を煎じないで、煮立った湯に浸して服む方法である。振出し薬に近いが、も少し繊細な抽出をする。碗を温め、布袋に入れた薬草に、沸湯を二度に分けて注ぎ蓋をする。薬液が出てくるまで5〜7分ほど待って温かいうちに服む。このとき滓の入った袋を絞ってはならない。薬液が濁ると薬力が停滞する。繊細な日本料理のダシ取りにも似ている。

煎じる方が有効成分も多く抽出されるが、不要な挾雑成分を排除し、急場を救う成分が抽出されるため、煎薬とは異質の薬効の速さと強さがある。外邪、食傷、腹痛、暑気あたり、日射病などに用いる。

 
薬を服するに、病、上部にあるには、食後に少しづゝ服す。一時に多くのむべからず。病、中部にあるには、食遠に服す。病、下部にあるには、空心にしきりに多く服して下に達すべし。病、四肢、血脈にあるには、食にうゑて日中に宣し。病、骨髄にあるには食後夜に宣し。吐逆して薬を納めがたきには、只一すくひ、少づゝ、しづかにのむべし。急に多くのむべからず。
病院で処方される薬は食後30分服用の指示が多い。食物が緩衝材となって副作用や胃腸障害を軽くしたり、服み忘れを防ぐためである。一方漢方薬は食間服用が一般的で、胃腸にもたれる薬草が配合された場合、食後に服用する事もある。

陰陽の考え方をとれば、薬効が上へ向かったり下へ向かったりする。服む時間によっても陰陽の偏盛で薬効に差が出てくる。夜間は副交感神経が優位になるのでそれを考慮に入れ服用を指示する「時間治療医学」という研究もある。又薬草と臓腑経絡の親和性によって細かく服用が指示されることもある。しかし面倒なので、余程の事でない限り忠実に実行している人は少ないと思う。実際、どれほどの薬効の差があるのか興味は尽きない。

 
凡薬を服して後、久しく飲食すべからず。又、薬力のいまだめぐらざる内に、酒食をいむ。又、薬をのんでねむり臥すべからず。ねむれば薬力めぐらず、滞りて害となる。必戒むべし。
飲食と同じように、服用後、横になって眠ったりすれば、気が巡らず、それに伴って薬も体を巡らず停滞して害を及ぼす。薬が巡らぬうちに食事を摂ると、胃が塞がり薬が腸まで到達するのを著しく妨げる。空腹時、温かくして服用すると30分位で薬が巡り始める。それから食事を摂るほうが良い。
 
凡薬を服する時は、朝夕の食、常よりも殊につゝしみゑらぶべし。あぶら多き魚、鳥獣、なます、刺身、・・・・・・・・・・・・・・・、気をふさぐ物、消化しがたき物、くらふべからず。
食養生で言う生、脂、甘、冷、粘膩などの性質を有する物が列挙される。最初に述べたように、養生訓は憶測や伝説でも、自分で試し効果のあったものが書き記されているし、良くなかったものも書き記され、徹底的な実証主義を貫き通した著作である。科学的手法で効果を検定するなら、同一モデルを同時に作って行うべきであるが、それは絶対不可能である。現実には自己観察、自己実験で確かめてゆかなければ目前の問題を解決できない。科学的証拠という耳ざわりの良い言葉を待ち、黙している訳にはいかない。科学的証拠も大切ではあるが。

薬と一緒の摂取を控える食物は、通常の飲食物としても多くを食べるのに注意のいる食物である。これらの食物は脾胃の気を塞ぐため、病の時は、なお注意を払うべきである。薬と薬の服みあわせ、薬と飲食物との飲みあわせや食べあわせも、沢山知られている。例えば、鉄剤とお茶、これは有名だが根拠は薄い。新薬に関してはかなりの数知られている。抗結核剤とチーズ、赤ワイン・抗菌剤と牛乳、ヨーグルト、市販のドリンク・睡眠薬と酒・抗凝血薬と納豆..

 
毒にあたりて、薬を用るに、必熱湯を用べからず。熱湯を用れば毒いよいよ甚し。冷水を用ゆべし。
飲食物も薬も、温かくして摂るのが原則であるが、例外もある。毒に当たれば、熱湯の陽気で毒気が早く広く回る。胃中にある物は冷水で薄め、吐瀉し排除する。水も冷やせば白虎湯(寒剤の代表処方)と言われる。陽気のあるものは食物でも薬でも陰を運び巡らせる働きがある。漢方処方に三黄瀉心湯という刀傷の出血に使われた薬がある。主薬は黄連、これは苦寒の生薬で冷やす性質が強い、これを活かすため、この処方は冷服の指示がある。鼻血が出た時、温かいうちに服んでも効くどころか反って酷くなるが、氷で冷やし服すれば、たちどころに止血する。陰陽寒熱の妙である。
 
諸香の鼻を養ふ事、五味の口を養ふがごとし。諸香は、是をかげば正気をたすけ、邪気をはらひ、悪臭をけし、けがれをさり、神明に通ず。いとまありて、静室に座して、香をたきて黙坐するは、雅趣をたすけて心を養ふべし。
アロマテラピーとでも言うべきか、五味の食が口を養うのと同じく、香りは鼻を養う。豊かで、快い香りは悪臭を去り、心を快適にしてくれる。芳香療法の基本的な考えである。雑事に多忙な時、静かな草庵にて香を焚き、瞑想し、心を養う、という空想だけでも、少しは豊かになれる。耳を養うには、音楽や快い小川のせせらぎ、鳥のさえずり。目を養うには、絵画、陶芸、、また四季に移ろう花鳥風月。いずれも五官をもって癒しを助け心を愉しませる。そして、家族、知人、友人、人との交流や心地よい会話は人が人として生きるための気高さを養うものである。

 

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