【漢方薬Q&A】


病院や歯科医院を訪れる患者さんはその時点で目的がはっきりしています。ところが薬局を訪れるお客様の目的は微妙に異なります。それによって相談の内容や時間に変化が生じてきます。
  1. 病院へ行く閑も、ゆっくり相談する閑もない、漢方薬は副作用も
    少ないので服みたい。
  2. 相談のうえ、(自己判断のこともある)漢方薬を服んでみたい。
  3. 健康や薬について不安があるので、相談し良いものがあれば
    試してみたい。

1.は詳しく問いかけ時間をかけることで面倒がられる場合もあります。病状も軽いことが多く、一般の漢方薬でも間に合いそうです。簡単に服用できるエキス顆粒や錠剤、丸剤、散剤などが喜ばれます。

2.3.がもっとも多く、相談内容によって漢方薬を服むかどうかの選択が分かれるお客様になります。ある程度漢方に知識のある人も多い半面、薬草茶などしか飲んだことがない人や、漢方薬の初心者もおられます。すべてのお客様に一律に漢方のお話をする訳にもいかず、お客様の求められる情報、費用などを考慮しながら話をすすめます。

3.のお客様は、漢方薬に不慣れな方も多く、相談には時間の許す限り応じています。絶対に効く特効薬であるならば誰しもためらうことなく服用するに違いありません。しかし、薬は株や競馬などに似て、ある程度の予測はついても、100%当たるという保障がありません。服んでみなければ解らないものです。「効きますよ」と言って効く訳もなく。お客様の疑心暗鬼を助長する話しか出来ない時もあります。スーパードラッグに勤めていた頃、社長から「迷うお客様の背中を押してあげるような言葉をかけろ」と再々言われました。不器用にも、未だ適確な言葉がかけられず右往左往の日々です。

 

効能・効果にない病気が治る
漢方薬の精力剤
排毒と好転反応
神様のお告げ薬
煎じ薬とエキス製剤
日本漢方と中医学

 


効能・効果にない病気が治る

新薬で効能・効果とは動物実験、人への臨床試験を経て認められた薬理作用をもとに、適応する症状や病名を表現したものです。薬理作用が判明すれば、凡そ効能・効果も推定されます。ところが漢方薬は経験から効能・効果が導かれています。科学の発達と共に、新薬と同じ方法で有効成分の単離、薬理試験が試みられ、いくつかの成分が知られるようになってきましたが、生薬すべての成分についての解明は困難なことです。無数の未知の成分は可能性を秘めているかもしれませんが、認められていない効能・効果に結びつける理由にはなりません。

経験や伝承に基づく効能・効果は民間薬にみられるように、本来備わっていない薬理作用にも関わらず適用されるものが沢山あります。薬理作用は備わっていなくても、生体はバランスをとりながら生命を維持する為、全く逆の作用やそれから派生する様々な作用が考えられます。そのどこまでを効能・効果と認識するかで応用範囲が定まってきます。話題としては拡がれば拡がるほど面白いのですが、拡がり過ぎた効能・効果を適用すると被害を蒙る人も出てきます。

よく耳にする「何にでも効く薬」というのはこのような思考手順を踏んで登場し、またこのような手順で説明、説得させられます。漢方や医学の用語が間に挟まると益々信頼性は強固になります。

一つの強力(高利益)な推奨品を扱っていると、この詭弁が生きてきます。漢方は体のバランスを調整すると言い、頭の薬を神経痛に勧めたり、胃薬を皮膚病に勧めたりするわけです。素人に対して、漢方理論は誤魔化しや販売の武器ともなります。

また、複数の強力な推奨品を扱っていると、西洋医学の理論が登場します。頭痛、腹痛、神経痛、水虫、、それぞれに対応する漢方薬や健康食品、そして外用薬まで勧めます。かたや漢方は全体のバランスを調整するといいながら、この食品があれば一層効果的です。軟膏で外からも治しましょうなどといくつかの薬を勧めます。例えれば、お茶漬けを食べに来た客を口説き、強引にフルコースを食べさせてしまうようなものです。

お客様の側も「何でも効く薬」の誤解や期待があり、逆に西洋医学的な薬の適用に慣れたせいか、「一症一薬」の常識と誤解があります。東洋医学的利点と西洋医学的欠点が混乱した状態と言わざるを得ません。売る側も、客の側もそれぞれを公平に評価出来るに越したことはありませんが、せめて費用対効果の考えが浸透するなら、それに伴い質の高い相談が可能かと思われます。「健康のため」というレトリックで必要もない薬に消費を強いられてはいないのか、それが意に反して体の負荷となるなら、金の有り余る人ほど被害が大きい事にもなりかねません。

販売に伴う効能・効果とは別に、生体には何もしないでも治る自然治癒力があります。それを促がすのをプラシーボ効果と言います。何もしないより、小麦粉でも良いから「秘薬」「特効薬」だといって薬を服むほうが自然治癒力を喚起する事があります。これが絡むので健康産業は解かり難く不透明とさえいえるのです。

理想論ではありますが、売り手に求められるのは健康に対する真摯な考察と説明です。西洋医学の知識は東洋医学より、広く一般に知られています。東洋医学の考えを出来る限り西洋医学的に納得できるよう翻訳して説明し、一方客の側も、難しい用語や納得のいかない理屈に対し充分な説明を求めるべきだと思います。

漢方薬の精力剤

20代で開業したので当時は「お兄ちゃんイイ薬がないかね?」としばしば尋ねられました。「イイ薬」とは単刀直入に言うには幾分憚られる男性精力剤です。女性からは全く相談を受けた事がないので、男性特有の悩みなのでしょう。お兄ちゃんと呼ばれていた頃から現在まで、この類の相談は続いています。

漢方屋店は昔、蛇屋とも称し、蛇はじめ奇妙な薬を販売していました。店頭に鹿の角、犀の角、一角の牙、蛇、ヤモリ、、、の類が並べられていると思わず、何か効きそうな秘薬でもありそうな気持ちになるのでしょう。エキス顆粒や錠剤では期待できない効果が、姿形の奇妙なものに宿るという錯覚を促がすのかもしれません。

果たして、このようなものが効くのかどうかという興味ある体験があります。栄養学の泰斗、川島四郎先生の著書「食べ物さんありがとう」には先生自らが食べて研究された話が書かれています。オットセイの睾丸、ウマの陰茎、イモリの黒焼き、サンショウウオ、マムシなど全部で11〜12種類。昔から世間で精力がつくと言われている食品です。

先生の他に4人の若者が加わって試したところ、特別な効果は見られなかったと言う事です。しかし、一つだけ掛値なしに効果抜群のものがあった。と、身を乗り出すような話が書かれています。九竜虫という蛍ににた昆虫で、これを生きたまま2匹、盃の酒に浮かべ飲み込むと、4〜5時間後に小便を催し排尿の直後に効果が出ます。さらに4〜5時間後、2回目の排尿後も効果が見られます。薬効成分はカンタリスという刺激物質で生薬学では引赤発泡剤として用いられるものです。生きたままの虫が出す分泌物が吸収後、尿道に達し血管を拡張させるために効果が発揮されます。効果はあっても危険性が伴います。胃腸に潰瘍や炎症などあればそれを誘発するし、尿道に炎症を引き起こしたり腎障害を起す事もあります。欲望達成には危険が伴うという話でした。

そこで、安全でお勧めできるのが、意外にも豚肉+ニンニクの組み合わせ料理だそうです。ニンニクは単独で食べても精力剤とはなりませんが、豚肉と一緒に料理するとビタミンB1の吸収を促がし、それによって体全体のエネルギー代謝がよくなるとの事です。ビタミンB1が精力剤という訳ではないでしょう。即効性はないが長期的に期待できるのではないかという内容でした。

しかし、必要なのは、「今夜の事」なのです。その為に、薬店ではマムシやオットセイエキスなどの配合された栄養ドリンクが普通に勧められています。しかし主成分はカフェインと少量のアルコールです。アルコールでカフェインの吸収を良くすると中枢が興奮するだけで、後の成分は気やすめに過ぎません。期待と高額というバイアスで効くことがあるのでなるべく高額な商品が良い訳です。

精力剤に配合される生薬は陽虚を改善する補陽薬に分類されるので、陽盛や陰虚の人には逆効果になります。解かりやすくいえば、冷えがあったり元々虚弱である人を正常に戻す薬なのです。元気な人が、更に上を望むなら、のぼせたり、血圧が上昇したり、心臓に負担がかかったりします。陰(エネルギー)を消耗するので、体力や抵抗力も低下します。命の貯金を消耗しながら、欲望を満たすようなものです。今夜効く精力剤には自信がありませんが、他の不調を治す過程で精力が復活することがあります。これならいくらか漢方薬に期待が持てるでしょう。

年齢相応の体質や体調があるように、年齢相応の生活スタイルもありそうな気がします。男は強くあらねばというのは妄念でしかありません。弱くても弱音を吐いても一向に構わないと思いますが....やせ我慢もまた男らしいところなのでしょう。

排毒と好転反応

好転反応は瞑眩(めんげん)という漢方用語が基になったものです。瞑眩を辞書で調べると、目がくらむこと。めまい。とあります。好転反応の語源にしてはいくらか違うような気がしないでもありません。中医ではこの言葉を使わないので日本漢方特有の考え方ともいえます。最初にこの言葉を唱えたのは吉益東洞です。「...若し薬瞑眩せずんば疾癒えずと...」

吉益東洞は瞑眩を「薬物の生体における作用や反応」と言う意味で使ったと言います。薬を服んで体に反応が起こるのは当然の事です。その反応は予期できることが多く、激しい反応であっても治癒に伴うものであれば容認出来ます。この後、瞑眩は「病が治癒する過程で起る予期しない生体反応」という意味で使われるようになりました。

現在では、瞑眩と言われる反応の殆どは漢方薬の副作用とするのが趨勢です。治癒の為の激しい反応の起る確率は漢方家によって異なりますが、凡そ1000例中1件、また10000例中1件程度と報告されています。

排毒は辞書にも無く、正しい医学用語でもありませんが意味するところは理解できます。おそらく排泄、排出などの代謝の事を指すものでしょう。エネルギーや異物の代謝、解毒は生体に必要な生理作用で、これなくしては生命を維持できません。糞便や尿、汗、などで異物を体外に排出しています。それを促がすという意味で付けられた、敗毒散と言う漢方処方もあります。

例えば、重症の便秘や打撲等のケガで便が詰ったとき、しかるべき漢方薬とともに下剤を服用すると、ときに激しい下痢を催す事があります。おそらく便中に毒(体にとって有害な物質)が排出されていると思われます。たちまち腹満感やのぼせ、吹き出物が改善され、ケガの場合は痛みが軽快し、その後、良好な経過が望めます。これは排毒と言い替えても良いのではないかと思います。また、好転の為の排毒とは別に、まさに毒を排出している状態を指す事があります。特に皮膚病などは肝臓で処理できない毒が皮膚を通して排泄される状態でもあります。このように排毒には治癒の経過と、病気の状態としての両方の使い分けが考えらます。

排毒=好転反応....と、即断は出来ません。体の観察をしていればすぐに解かる事です。排毒しても排毒を促しても改善されない病気の方が多いのです。しかし、この言葉を励ましやその他の意図をもって用いたり、説明・説得に使う場合があります。漢方の用語から発生した用語でありながら、既に漢方で使われなくなった用語が、どこかで生き延びているのです。

不快や苦痛を排毒とか好転反応などと我慢せず、率直に不快や苦痛を訴えるべきです。何のためらいも要りません。そして、納得のいかない不快や苦痛を耐えさせる治療家は見限るべきです。

好転反応には次の3つの解釈があります。

  1. 薬の持つ作用で、病気回復の過程にみられる反応。
  2. 病気が回復するとき起る予期しない厳しい反応。
  3. 副作用、不適応を隠蔽、糊塗するための業界用語。

神様のお告げ薬

比較的大きな宗教団体の行なう擬似医療行為が、過去多くの社会問題を引き起こしました。それでも繰り返し、次から次へと絶えることを知りません。健康や病の悩みは根深く、通常医療では満たされないものを抱えた人が多いのだろうと思われます。町には評判の良い、小規模ながらも「生き神様」や「祈祷所」が点在します。病だけに限らず人生・悩み事相談を一手に引き受ける町のカウンセラーとでも言えましょう遠い所ほどご利益があり、順番を待ってお伺いを立てます。凡そ仏壇、神棚が飾ってある事が多く、祈りの言葉と共に厳かな儀式が始まります。

病気を人の霊や念、その他の霊の仕業と捉えお払いによって、その怒りなり念を鎮めます。霊感で診断をしてしまう神様や、処方を指示する神様もあります。その後、病院の診断と一致し、経過も予言のとうりだったと言う話を聞く事もあります。漢方でも四神(玄武・白虎・朱雀・青龍)として病態を分類します。これが霊や念に変わったところで大差はないと思うのですが、いかがなものでしょうか?

処方される薬は何故か薬草が多く、仕事上しばしばその処方箋が舞い込みます。「?」これで...治るのかなぁ?と疑われる薬草や漢方薬で、実際に快癒したり苦痛が軽減される人を見ていると「私は一体、何のために漢方の勉強をしているのだ」と考え込んでしまいます。薬草を生業としている者より、治癒率が高いと困ってしまいます神様とは言え薬の素人ではないかと侮る訳にはいきません。たとえ小麦粉でも治癒を促す手続きを満たせば、治癒が起るのです。

「神様のお告げ薬」に関しては、まず毒劇薬でないかぎり、お告げに従い販売しています。それを断固拒否するほどの理由もないし、神様のように治癒を促す手続きも知らないからです。漢方の古典には呪医を戒める言葉が書かれていますが、呪医に学ぶべき点もあるのではないかと思う事があります。思うあまり、呪医になってしまった医師や薬剤師も少なからず居ます。

神様のお告げ薬に似たものは幾らもあります。TVや雑誌で紹介された健康茶、知人・友人に勧められた薬草、有名人の飲んでいるサプリメント、体験談の書かれた新聞広告、、、これらの情報は、時として正しい知識より優先され強固な誘因ともなります。人の心理は不可解なものです。これらの類似「お告げ薬」も、お求めに従い販売しています。おかげ様で健康番組放送後は、数ヶ月も在庫のままの薬草があっという間に売り切れます。在庫を補充すると、次の週には別の薬草が取上げられ、再び在庫を抱えてしまう破目になります。

専門家でさえ迷い込むお告げ薬もあります。大先生、大家(たいか)、師匠、、、などと呼ばれる漢方家の講演会に出かけると、そこには漢方を志す医師や薬剤師が集まり、先生の考える漢方理論と共に、それに基づくと思われる興味ある症例の話が続きます。自分も名医になったかの様な錯覚で翌日、早速そのような症例に試してみると「話が違う、話と違う」..という思いをしたことが何回かあります。それは未熟だからと言われるなら、そのとうりです。先生の話は殆どが役に経つ事ばかりですが、治すのと話すのでは違って当然なのです。同じ症例の捉え方でさえ個性が出てきます。

しかし、「話と違わない」効果に感激した事も何回かあります。先生の勧める薬が効かないはずはないという思いは、強固なバイアスとなります。勉強会の集団は師匠を頂点としたヒエラルキーを形成しています。宗教集団にも似て師匠に右へ習い。師匠の指示する薬は広い意味でのお告げ薬に分類できるでしょう。

煎じ薬とエキス製剤

両者の違いを書いた本や雑誌は殆ど一様に「煎じ薬は本来の漢方薬で濃く加減もできるオーダーメイドで、エキスは忙しい現代人に便利である」と言う説明がなされています。業界や漢方家側からの情報が多く、漢方に批判的見方をする学者からは小麦粉以下、副作用だけがあるという意見が出されています。一般の医薬品業界や医療現場の人々はどのように感じておられるのか是非知りたいところです。

エキス製剤の薄さは技術上仕方のないことです。エキスを煎じ薬と同じ量服用させるためには、顆粒や錠剤の基となるデンプン、乳糖などが相対的に増え、口から溢れるほど服用する破目になります。煎じ薬の他に原典で指示された剤形があります。丸剤、散剤で服用するものを煎じてしまうと有効成分ゼロというエキス製剤も出てきます。例えば漢方胃腸薬の安中散は、牡蠣の炭酸カルシウムが制酸作用を発揮しますが、水性エキスでは抽出されません。芳香性の薬草も水性エキスでは無理があります。もちろんエキス製剤ではオーダーメイドは困難です。

しかし、これらのマイナスを乗り越えるものがあるからこそ普及していると言えます。メーカー側の宣伝では、この上なくメリットが強調されています。漢方のエキス化で誰でも容易に手軽に漢方薬の服用が可能になりました。一方、処方する側も容易に手軽に使えるようになりました。漢方は少し手ほどきを受けると短期間に初級レベルに達します。それを一層可能にしたのがエキス製剤の開発です。今まで使って来た新薬と同じように病名や症状を目標に、たった今から使えるようになります。メーカーの初期の勉強会や広報活動も、そのような手法が中心となって普及していきました。その名残が「番号漢方」です。

エキス製剤と煎じ薬はハードとソフトの面があります。煎じ薬を調合するには生薬の知識が欠かせません。一味で効果に変化が現れることもあります。その数々の生薬を念頭に相談をこなしていくのと、病名と症状の記載されたエキス製剤が同じである筈がありません。ときには生薬に教わる事があります。処方を決めて、さて調剤の段取りになり生薬の前に立てば、生薬が出番を求めるように自己主張を始めます。「なるほど、こんな生薬があったのか?」と改めて気付かされます。エキス製剤では得難いものが煎じ薬にはあります。

漢方家なら生薬の学習は避けて通れません。しかし、医師は詳しい知識があるにも関わらず、処方に書き込むだけで後は薬局や調剤薬局の薬剤師が調剤します。無理な事とはいえ、自らの手で調剤してこそ生まれる発見や喜びもあるのです。今は止めていますが、かって医師の処方箋による煎じ薬の保険調剤をしていました。調剤室までおいでいただくなら、も少し違う処方になるかも知れないと...感じる事がしばしばありました。

医師の手で書かれた「煎じ薬とエキス製剤」の話は、正にごもっともな正論ですが、生薬の香りの中で、それに手を染め奮闘している者にとってはいくらか物足りない感じもします。

日本漢方と中医学

薬草を用いるという意味に於いてはいずれも変わる事はないでしょう。中医を知る前は、日本漢方(古方・後世方・折衷派)の先生の著書を頼りに仕事を続けていました。「方証相対」といって、症状に対応する処方を導き出すのが相談の要です。仕事に慣れると難しいことではありません。最初は民間薬を選ぶのと大して変わらない仕事内容でした。ドクダミは皮膚病に良いとして手当たり次第使えば民間薬ですが、ドクダミの辛微温という薬性を知り発散させて治す皮膚病に用いれば、立派な漢方薬と言えます。漢方薬とは、薬ではなく薬を運用する技術なのです。

初心者の頃の方証相対という段階を一歩越えると、漢方的な病理の理解、漢方的な薬草の理解が必要になってきます。ここでやっと民間薬のレベルを脱することが出来ます。日本漢方は古典(先人の理論や経験)を重視しながら、それに各漢方家の臨床例を積み重ね、一つの体系が出来上がっています。

中医学の成立は1950年代になります。中国の伝統医学を整理、体系化し教科書や資料としてまとめられたものです。55年頃から日本に紹介されるようになり、70年頃から日本での本の出版も始まりました。古典の五行理論や本草学を基に作りあげられた古くて新しい学問体系です。なんと言っても「覚えるのが大変な...」学問で、覚えた端々から忘れていくという学習の繰り返しです。

資料や教科書とするためには必然的に理論の構築が求められます。陰陽説、五行説を基本理論として、心身の現象や病理を認識し、それ基づいて治療則を導く事を弁証論治と言います。五行説はインド、中国をはじめとする東洋の思想や古代科学の基本概念となっていますが、実用化され、現在も利用されているのは中医学に限ってのみです。

生体は複雑な要因が絡み合い不合理な動きも、矛盾する動きも呈します。それを五行理論で解釈するために、無理、強引、複雑、面倒、、、と言った欠点がないわけではありません。しかし、体を診るトレーニングや、治療に行き詰まった時の考察のパターンを余すところなく示してくれます。「中国の人は頭が良いなあ..」とつくづく感心する次第です。

凡人の思うことですが、日本漢方も中医学も人間のやる事、本質的に著しく違うものではないと考えています。中医学は理論があるとして、日本漢方より優位である主張をする漢方家があります。しかし、未熟な中医より熟練した日本漢方医が一般的には高い治癒率を上げられると思います。理論や知識の多さや複雑さは、何らかの助けにはなっても臨床での優位性を示すものではありません。癒しには技術と共に治療家の人格が関わってきます。さらに、癒しに於いては複雑な理論より、単純な理論のほうが有効で支持されやすい場合がしばしばあります。

処方決定はどのような手順を踏んで為されているのでしょう。私はいくつかの症状や愁訴を伺うと、おおよそある処方の検討をつけます。「まあ、こんなものでいいだろう」と陰の声がささやきかけます。細かな弁証など致す間もなく「勘覚的に...」処方や薬草が浮かんできます。あとは、それを再確認するための相談になります。お客様の求めがあれば時間の許すかぎり話は続けますが、処方が決定するまでの時間は短いものです。長時間かけ出来る限り多くの情報を引き出すという漢方家の話を聞くと、無能な私は、きっと情報が多すぎて混乱するに違いないと思ってしまいます。話の内容や時間によっては、その事で治癒を促す働きがあります。この意味でなら私も実践できそうです。

日本漢方も中医学も勉強しておけば理想的です。それぞれの欠点や長所を生かすことが出来れば、病者にとっても利益となります。中医の薬草が入手できなければ、手元にある薬草を使えるし、分量が多ければ適宜減らすことも出来るでしょう。日本漢方の経験処方を中医学で検討し理論的裏づけを得れば再現性も可能になります漢方とは物ではなく思想や技術なのです。学術体系で優位を競うより、治癒を目指す技術こそが漢方の思想だと思います。ともすると専門家は言葉と裏腹に自らの仕事の利益を守るために他の専門家を排除したり、素人を排除したりしていないか、自嘲をも込めて記しておきます。

 

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