【代替医療ガイド(2)】


代替医療は西洋医学系の現代医療(又は通常医療)に対する用語として用いられる。漢方(中国医学)やインド医学など各国で継承される伝統医学を始め、民間療法との境界も曖昧な「○○療法」と名指されるものがひしめく。また、民間療法をモデルに新たな理論と装いで登場した療法もある。理屈に珍妙なものはあるが人の考えること、想像を超えるものは少ない。もう少し細分化してみると、カテゴリーごとに療法の下地となるものや治療思想が理解されると思う。たとえば、...霊芝やアガリスクやメシマコブなど大きく離れたものではなく、むしろ同一のものと考えてよい。これを違うもののように錯誤させるのは何故か?その結果、類似の健康食品に次々と希望を託す人々。こうしておびただしい数の商品と巨大な市場が生まれる。「まったく新しい..」という形容詞とともに出現する療法、たとえば、リフレクソロジー、これが今までのマッサージや指圧、足もみ健康法とどれほどの差異があるというのだ。強い力で筋肉や骨を矯正するカイロプラクティックに対し、逆に微弱な力で手技を行うオステオパシーがある。この対極を為す治療理論の信憑性はいかばかりであろう。以下の分類は自信を持って主張するものではなく、領域のいくつかを横断する療法もあるし、考え方によっては多くのものが心理療法や免疫療法に収束するのかも知れない。

1.伝統医学・民間療法系
 漢方医学鍼灸気功アーユルヴェーダ、ヨーガ、チベット医学、民族医学

2.手技療法系
 カイロプラクティックリフレクソロジーオステオパシー、指圧療法、すいな療法、マッサージ
 足もみ・手もみ療法

3.心理療法・リラックス系
 芸術療法瞑想信仰療法アロマセラピークリスタルヒーリング手かざし療法
 
サイモントン療法バイオフィードバック催眠療法、自律訓練法、サイコセラピー、カウンセリング
 呼吸法、イメージ療法、スピリチュアルヒーリング、温泉療法、音楽療法、ユーモア療法、絵画療法

4.食事療法系
 マクロビオティック 栄養補助食品ゲルソン療法断食療法、青汁療法、昆布健康法
 玄米食、水健康法、ビタミン療法、野菜ジュース療法、少食療法

5.薬草・健康食品系
 薬用人参サメ軟骨エキス、霊芝、アガリスク、マイタケ、メシマコブ、ウコン、タヒボ茶、アロエ
 ドクダミ、イチョウ葉エキス、プロポリス、AHCC、米酢、キチン・キトサン、海ヘビエキス

6.電気・器械療法系
 電磁波療法光照射療法波動療法、電気鍼療法、遠赤外線療法、磁気療法

7.生物学的療法系
 生物学的歯科療法代謝治療法腸管洗浄法酵素療法、ゲルマニウム療法、オゾン療法
 細胞療法、ヨード療法、キレーション療法、、排泄療法、活性酸素療法

8.免疫療法系
 ホメオパシー飲尿療法、新リンパ球療法、インターフェロン療法、クレスチン、丸山ワクチン
 胸腺療法、インターロイキン療法

 

【注】代替医療ガイド(1) 代替医療ガイド(2)

オステオパシー
手かざし療法
サイモントン療法
バイオフィードバック
ゲルソン療法
断食療法
薬用人参
サメ軟骨エキス
光照射療法
波動療法
代謝療法
腸管洗浄法
酵素療法
飲尿療法

【用語解説】

ホリスティック医療
補完医療
統合医療
代替医療

 

オステオパシー

ギリシア語のOsteon(骨)とPathos(病理、治療)が語源となってオステオパシーとなった。1874年アメリカの医師A.スティルによって創始されカイロプラクティックと並ぶ整体術として人気も高い。カイロプラクティックが背骨を中心とした骨格の調整を主とするのに比べ、筋肉、内臓、神経、血管まで手技の範囲が広げられる。強い力を加えるカイロプラクティックに対し、加える力は弱い。身体構造の異常は血液などの循環に悪影響を及ぼすという考えから発展し、それらの矯正によって神経、内分泌、血液、体液などの機能や循環を改善するというのだ。腕や足を持ち上げたり、軽く押したり、頭を軽くつかんで微弱な力で引っ張る、など様々だ。軽いマッサージのようでもあり、気功治療に似ていなくもない。日本では操体法がこれに近い。疲労時、一人操体法で体をほぐすと凝りや疲れがとれ気分転換にもなる。オステオパシーも同様に一人で行うことができる。軽い背伸び、首回し運動などゆっくり静かに動かすことでリラックスが得られる。固着した体に動きを持たせることは日々の養生としても有益である。朝のラジオ体操を1/5くらいの速度で試みるのも良い。現代医学の現場ではリハビリを除いて手技を行うことは少ない。聴診器さえ用いない診断も稀ではない状況で、体に触れる療法は治療の満足感や治療家への信頼が生まれる。

オステオパシーでは・肩凝り・腰痛・偏頭痛・耳鳴り・めまい・内臓、自律神経系の機能障害・肘、膝等の関節痛などを有効としているが、自然治癒力を引き出すという考えから、西洋医学の全科にわたる適応症を標榜することがある。しかし、まさに自然治癒したものをどう評価するのか興味がある。それまでもオステオパシーの手柄にする事はできないし、ガンなどの難病まで治るというのは適切ではない。手技による苦痛は無く安全で心地よいことが特徴であるが、軽い力で手技を加えて骨格が移動したり、体液に変化が起こるとは考えがたい。頭蓋仙骨法は5gの力で頭を引っ張り脊髄や髄液を正常に調整するというが、5gで一体何が変わるのか疑問である。ただし、これを乳幼児に行うと未発達のデリケートな脳に好ましくない場合がある。

手技療法系は最初、コツや方法を教わるとあとは一人で出来るものが多い。足裏のマサージ、指圧など通常似たようなことは行っている。しかし、背景となる理論や方法に複雑さや難解さが加わるとありふれた手技も療法としての地位を獲得する。「やはり専門家でなければ..」と思わせることも意義深い。養生法のアドバイスも含め自然派から支持されそうな要素が代替医療には備わっている。自然に反するような条件によって引き起こされた不具合を自然の摂理に従うことで復帰させようと言う思想である。

 

手かざし療法

オステオパシーは弱い力で手技を行うが、これは手をかざすだけ、あるいは触れるだけの療法である。神秘性や宗教性が強く、遠隔治療を謳い料金を取る治療家も見受けられる。100年ほど前に臼井甕男(18651926)が京都の鞍馬山で21日間の断食・瞑想の末にまとめあげた霊気(レイキ)治療という有名なものがある。海外でも名称は異なるが同様の療法が知られている。1995年刊の「光の手(上・下)」には詳細な理論と方法が記されているが、一言でいえばオーラという生命エネルギーの活用法である。オーラがあるという話は聞くが、まだ見たことはない。薄闇のなかでしばらく両手を観察すると、ぼんやり周囲がにじんで見えてくる。これをオーラとする説明もあるが、目の錯覚なのかも知れない。オーラが見えるのは神経疾患か特殊能力か定かではない。見えないのに見えると思い込む人も居るに違いない。気功でいう「気」の概念に似ているが、気功では内気は認めても、外気までは明確に肯定されていない。まずは仮説としておくほうが無難である。そのオーラがエネルギーを持つというのは更なる仮説ということになる。エネルギーは有益ばかりでなく有害に働くことはないのだろうか?それを治療に利用するのは相当の配慮と勇気を要する。

手かざし療法はオーラという生命エネルギーを自らにも他へも与えるという超能力気功と超能力宗教の狭間にある。心身をリラックスし、祈りや瞑想で高次のエネルギーを感じるべく意識を集中する。やがて手にその感覚らしきものがみなぎると、そのエネルギーを患部に放射する。至って簡単、自分で行えば費用もかからずいつでもできる便利なものだ。これによって血行が改善されたり免疫力が高まり、ガンまでも治るという。苦痛部分に手を当てることで安らぎと、何がしかの快適さをもたらすという原初的「手かざし」は、やがて気功を取り入れたり、薬草療法を併用したり、他の療法と結びついたりして亜種が続出する。気功治療は訓練に時間と根気がいるが、手かざし療法は短時間(おおよそ数日)で身につけることが可能としている。しかし、習得のため高額の費用を要したり、宗教団体が提供する手かざし療法では全財産を没収されるような悲劇も起こっている。

非科学的で得体知れずのエネルギーであるが、治療効果の科学的検証をサーモグラフィーでの体温の上昇や、脳波検査(α波)、免疫細胞の増加などで見せることがある。よくなるかもしれないという被験者の期待、よくなるはずという治療家の暗示効果が働き反応するのかも知れない。万が一、生命エネルギーの放射ができたとしても、そのすべてが有益とはいえない。邪気の扱いも検討課題である。

 

サイモントン療法

身体的事故や病気にも関わらず心の専門家の登場が報じられるようになった。医学がまだ宗教や呪術の領域だった頃、心が健康に大きな影響を及ぼすのは当然とされていた。「病は気から」という病気の語源もこのことを意味している。いつの間に身体と心を切り離して扱うようになったのか?それを再び融合させようという動きは大いに歓迎されて良い。しかし、体は医師に心はカウンセラーにという分業化は現代医学がもたらした負の遺産ではないか。診察、治療(施術)、看護、心のケアー、、多くの代替医療はこのいくつかに一人の治療家が関わる。分業化によって得られた利益も見逃すことはできないが、それによって責任感や緊張感や注意力が分散する。

科学技術の進歩とともに再現性や実証性が求められ、それが人類のより良い幸福をもたらしたことは疑いがない。いまも多大な恩恵を受け、これからもこの方向で発展を続けるだろう。伝統医学や民間療法では「心」が脈々と受け継がれこれが時を越えて支持される要因となった。現代医学が心を軽視したわけではない。伝統医学が科学を後回しにしたように、最重要課題とはしなかったのだ。西洋医学の現場から心身症などの病気が知られるようになり、改めて俎上に乗せられることになった。「ストレス」という用語は一般化し、医師は病状を説明し、患者は納得する。ストレスとは?これが病因になるかどうか、またその実体も明らかではない。人に無意識という闇があるかぎりすべてが白日のもとにさらされる日は訪れないだろう。

方法は異なっても心理療法は各種代替療法に多大の影響と利益を与え、まさに癒しの「要(かなめ)」といっても過言ではない。漢方も鍼灸も...今まで述べてきた療法のすべてが心の関与なくして治癒はありえないとさえ考えている。心理療法は直接的に「心」を扱い、他の療法は間接的に「心」に働きかける道具を用いる。サイモントン療法は第一線の放射線腫瘍専門医であったカール・サイモントン博士 により開発された心理療法である。臨床における病状が同一でも患者によって回復力にかなりの差異が生じることに注目した。やがて、患者の心理状態が病気の経過や転帰に大きな影響を及ぼすことに気付き、絶望と希望、悲観と楽観、消極と積極、、、このような観念を前向きにすることを治療のプログラムに取り入れるようになった。方法は異なっても心のありようが人の免疫機能に影響を及ぼすことは証明されている。しかし、それを有効に機能させる確立された技術はなく、今後もその可能性は薄い。それゆえ多様な代替医療が生まれ混沌の海から宝石を拾い上げようとしているのだ。

サイモントン療法では家族などのサポーターも入れたグループで進められる。人の思考や心理が身体に及ぼす影響を理解し、個々人の思考パターンの分析を経て健全な方向へと導く。ストレスや病気、死に対しても意義を見出し、リラクゼーション、メディテーション等、日常生活のケアのための方法を身につける。ガンや病気、その消滅や縮小を具体的にイメージし積極的に繰り返し繰り返し行う。そのイメージの手助けに人体解剖図や映像などが用いられる。ガンの療法としてばかりでなく、他の病気や日常の健康管理やストレスの解消にも一定の役割が期待できる。なかには、どうしても悪しき観念を払拭できない人がいるかも知れない。闇ばかりを見つめだんだん深刻に重篤になる場合も考えられる。また、改めて心を意識することに不向きな人々も存在する。他にも夢や神話を用いた療法や前世療法など、心に働きかける療法は観念を具象化する操作が欠かせない。薬草や錠剤、注射、手術、器械などを用いる療法はすでに具象化の一段階が省力される。

 

バイオフィードバック

痛みや傷の消失や体調の快適さは生理的実感として治癒の証拠をもたらす。西洋医学での検査値や画像も治癒や病状の確認に果たす役割は大きく、結果は治療の変更や重大な判断の根拠ともされる。イメージだけでは頼りない、またイメージが苦手な人にとっては励みになる何か具体的なものが求められる。そこで、機器を用いて身体の状況をモニターしながら行う療法が出現する。筋肉や神経の活動を機器の信号に変え、それを確認しながら心身をコントロールする術を得ようというのだ。確認→修正→確認→修正...を繰り返すことから、フィードバックと呼ばれている。

筋電図計は筋肉の緊張度を測定し凝りや痛みの指標とし、現代医療でもケガなどのリハビリに用いられる。皮膚温度計は血流の変化を表し、高血圧や片頭痛、血流障害などに用いられる。皮膚伝導度計は発汗によって変化する皮膚の状態を測定し、緊張や不安の目安とする。うそ発見器がこれに近いものである。手や指の脈拍測定器、呼吸測定器、肺活量測定器など、生理状態を数値化することで、目に見えないものや感じることのできない変化を認識させる。リラックスした状態の数値を目標にし、数値に向かって心身のトレーニングを繰り返す。治療家は個々人で異なる信号の意味を解析し、最良のアドバイスを与えナビゲートしていく。

これらの機器には科学的、普遍的背景が必要である。特殊な機器とか、世界で珍しい器械であっては奇怪極まりないし、信頼することはできない。ラジオニクスといわれる類のものや、広く認知、使用されない機器を用いるようであれば、まず疑いを持つべきであろう。結果が良ければ、、、良いだろう、と言うのもごもっともであるが、良くない時の対処ができるくらいの冷静さは持っておきたい。また、良くても、それは最良か、費用対効果は適切か、まで考えると馬鹿馬鹿しい療法はいくらでも目につく。瞑想や座禅、気功、ヨガなどは機器の代わりに自らの意識や感覚を研ぎ澄ます。しかし、数値を信じ機器を科学的だと思い込んでいる人にとってはプラシーボ効果も加わるだろう。

 

ゲルソン療法

食事療法系の出発点は、まず病気が不適切な食事から発生することを説いていく。失った正当な食、それを正すことで病も克服が可能と主張する。食由来の疾患を例外にすると、実際、病気の発生に関わる食事の影響は大きいものではない。飢餓は確実に死をもたらし、食を与えることで解決を見るが、死を救うから病気まで救うとはいえない。食事はすべての病気の原因ではない。食事ですべての病気は治らない。この二つを念頭に食事で可能なことを考えていくべきではないかと思う。一般の人の感覚では、著しい偏食もなく常識的な食生活であれば生きていけるものと信じているし、栄養学を知らずに人類は存続してきた。豊かになり健康や食を考える余裕が生まれると、漠然とした不安感が芽生える。いまのままの食生活で良いか?食の供給は大丈夫か?それを見越すかのように食療法家は危機や恐怖を煽る。栄養学に基づいた食指導ならまだしも、観念や信念による食指導に従ってはならない。これに対処するためにも栄養学の知識は必要である。

ゲルソンはドイツ生まれの医師で1936年に米国へ渡り1959年に亡くなるまでニューヨークで開業していた。シュワイツアー博士の奥さんの病気を食事で治したことで、「医学史上稀有な天才」とシュワイツアーから絶賛されたという。「3大栄養素をバランス良く...」と指導する現代栄養学に抵抗するかのような食事療法である。塩分・砂糖・脂質・蛋白質を制限する厳しい内容で、野菜や野菜ジュースを中心に穀類は玄米をすすめ、加工食品、菓子、嗜好飲料やタバコを禁じる。元々の療法はもっと厳しく、それによる死亡例や体調不良が続出したため、徐々に修正されていった。それでも食事の急転換で体調の変化や悪化は否めず、現れた体調不良を「排毒」、「好転反応」として耐えさせる。好転反応が得られないと病気は治らないとして、排毒を助ける意味でコーヒー浣腸で腸内を洗浄する。そしてこれによる事故も報告されている。食事と排毒療法を兼ね備えた非常識な療法といえる。ガンの療法として広まったがガンに有効である証拠は認めらなかった。しかし、高コレステロール症や高脂血症の食事としては参考になる部分がある。また添加物を避け、できるだけ新鮮な食材を求め、タバコや嗜好品を禁ずるライフスタイルの提言には耳を傾けるべきものがある。食養家は一般的に禁欲的な提言で患者の考えや生活をコントロールしようとする。禁止や規則の多い食事を遂行する信念が、なんらかの前向きな希望を与えるのだと思う。心理療法の一種と言えなくもない。

この手の食療法に没頭すると食や食の流通までもが悪意に満ちたものと感じられるようになり、同好の人々だけが群れる。オーガニック、スローの言葉を信奉し、活動と出費を惜しまない。彼らの理想郷が訪れたときには、ノアの箱舟に乗った人々を残して人類は淘汰されることだろう。一部の市民団体、消費者団体など、社会に対し過剰なまでに悪意を投影していないか疑問に思うことがある。そして、ノアの箱舟に乗ることのできる人々は、もちろん私ではなく彼らでもない。

 

断食療法

体に有益なものを摂取しようという食事療法はいたるところに転がっている。テレビや雑誌のオススメ健康食や現代栄養学などはプラス食養法といえる。対極を為すと考えられる玄米菜食や自然食も有害なものを断って有益なものを食べようという点で、本質は同じものと考えている。断食療法は食事療法と解毒・排毒療法を合体させ、カロリーを断つことで健康を目指すものだ。食が命を育むことに疑いを差し挟む余地はない。このため、摂取する食材やその比率によって心も体も形成されるという考えには根強いものがある。このため、道徳や心の問題として説く動きもみられる。日常生活の一部であり、楽しみでもあるだけに食に関しては一家言を持つ人が多い。

断食療法は飢える国では行われない。十分な食糧を獲得した人々が、政治的抗議や宗教的儀式、また欲望をコントロールすることで、より高みの快楽へ至る手段として用いる。それによって魂だけでなく身体も高みへ健康へと導かれ、病気の治癒までも期待する。このため液体以外の食物は一切摂らず、水、ジュース、お茶、すまし汁などだけで行う。稀にはドライ断食といって水分も完全に断つものがあるが、1〜2日が限度であろう。体を極限の状況にもっていくと脳内麻薬物質で、ある種の快感が生まれ水への欲求さえなくなるという。通常は水分だけで数日から1週間、慣れてくると2週間から1ヶ月行う。これによって消化のエネルギーが治癒に向かい、体内の毒素は排泄、浄化されると主張する。断食の途中で、頭痛、虚弱感脱水症状めまい、体重減少精神不安発熱、血圧降下動悸吐き気、嘔吐などが見られ。治療家はこれを、治癒や浄化のための好転反応だと説明する。不快症状が出ているにもかからず危険という認識を欠く治療家は、存在そのものが危険といえる。ゲルソン療法と同じように、ここで大腸洗浄や浣腸を勧める場合もある。

治癒力や免疫力は十分な食物によって得られるものだ。それによって抗体を産生し血液や細胞の機能を維持する。人が生きるためには絶えずカロリーの供給を必要とするが、それが得られないならば自らを食べて遂行するしかない。カロリーを得るために体脂肪が分解されケトーシス(血液が酸性に傾く)を引き起こし昏睡や死に至ることがある。また筋肉が破壊されたり肝臓、腎臓などの機能にも重篤な影響を及ぼす。体重が減少するのは毒素が排泄されるから..ではなく、自らの血肉の減少なのだ。人では適正体重の56%以下になると死に至ることが知られている。特に病気で体力や抵抗力の落ちた人は危険で生命を脅かす恐れもある。食べ過ぎたとき1食あるいは2食抜くのは、胃腸の負担を軽減し食滞を避ける有効な方法である。時には24時間程度の断食も心身の活性化につながるだろう。しかし、継続して長期におこなうことは危険をともなう。飽食の弊害としてメタボリックシンドロームという生活習慣病が指摘されている。飽食気味の人の適切な減食と食材選択は有益な養生となり得るかも知れないが、あらゆる病気の治療にまで有効とはいえない。なにごとに於いても、ものには限度というものがある。「適量」とは色々な場面で用いられるが、これほど漠然として曖昧な言葉はない。明らかに量を決めてもらったほうが断然助かる。物に溢れていると適量は「飽食」へと傾き始め、いまや空腹でない状態を適量と考えている人が多いのではないだろうか。飢えとまでは言わないが、空腹は心身にとって重要な意義と役割を備えているのだ。

 

薬用人参

ここ10年間、OTCも含めた医薬品の市場規模は6兆円で推移している。ところが、健康食品の2004年の市場規模は1.2兆円と10年間で倍増の勢いである。ビタミンCの480億円を筆頭にローヤルゼリー、カルシウム、食物繊維、青汁、クロレラ、アガリクス、健康酢、プロポリス、ビタミンE...と続き薬用人参は16位になる。いずれ飽和点を迎えると思うが、今のところ成長産業といえる。医薬品ほど厳しい規制に縛られず無資格者でも販売可能なことが繁栄の要因であると思う。また軽妙洒脱なライフスタイルの蔓延で、手軽で便利、スマートに健康を維持するという要望に叶ったのかも知れない。薬草といえば煎じて服むのが当たり前であったが、今は面倒がる人が増え、手軽なものを求められる。ここ10年間の健康食品の伸張がその変化を如実に物語っている。薬用人参といえども健食業界では食品として取り扱われる。十薬→ドクダミ、ヨクイニン→ハトムギ、、、など名前を変えるだけで法律上、容易に食品となる。食事療法系のビタミンや栄養補助食品との境界は曖昧だが、食事療法に積極的に利用される場合と、単独で販売される場合がある。他に各種療法の補助としたり、宗教集団のお告げ薬として利用されることもある。しばしば社会問題となるマルチ、MLMなどのアイテムとしての需要も大きい。薬学では、生薬学や植物薬品化学など必修科目とされ、一部は医薬品として保険の適用もされている。伝統という実績に則り、厳しい検定も経ないまま現代医療でも引き続き利用されている。長い経験に培われ、それが食品近辺のものならば利用するのにそれほど大きな抵抗は要しない。上位10品目の健康食品も安全で、効能についても一定の納得のもとで利用可能である。経験的な用途としての効能と科学的に明らかになった効能とが薬草や食品の属性となっているが、この適用範囲をどこまで広げるかが治療家、素人そして魑魅魍魎を分かつ基準になる。

薬用人参は多数の呼び名と親類を持つが、食用の人参とは種属も異なる別物である。高麗人参、朝鮮人参、御種人参は同属であるが産地の違いがある。竹節人参、田七人参、西洋人参、シベリア人参はウコギ科で薬用人参と同科である。ウコギ科の植物は各地で薬用人参と同じように滋養強壮薬として用いられてきた。このほか、科の異なるアンデス人参、山人参などがあり用途は薬用人参に近いものだ。また形態、加工法によって白参、紅参、直参、曲参、毛参などと呼ぶこともあり、粉末、エキス、エキス顆粒、錠剤、カプセル、丸剤など数多くの製品が流通している。さらに販売にあたって有利な差別化を図るため...産地を冠したり、純粋とか秘薬、有機の文字を入れたり、牛黄などの高貴薬を配合したり、、と工夫がなされる。神農本草経では「五臓を補し、精神を安んじ、魂魄を定め、驚悸を止め、邪気を除き、目を明らかにし、心を開き、智を益すを主る。久しく服すれば身を軽くし、年を延べる」と書かれている。古人が最初に生薬を用いたきっかけは、色や形や香りなどの特徴から類推される効能であった。人参は収穫まで時間がかかり、繊細な生育条件を要する希少な植物である。根は人の形を為し、まさに人体の何をかを形成するような気がしてくる。期待が効果をもたらし、臨床的、経験的に確認されたものが人参の用途となった。しかし、薬効や適応症を明確にしない記述は憶測を呼び、憶測によって用いられる可能性は十分にある。「五臓を補し」一つを取り上げても、治療家によっては「万病薬」たる証拠として自信をもって用いるに違いない。近年、科学的分析研究による効能が追加されつつあるが、これによって認められる効能の一部が「五臓を補し」に触れただけでそれが証明されたかのように錯覚する。こうしてより強固な信念を治療家自身が抱き始めることがある。薬草は未知の成分が多く、有効情報だけを頼りにするのは注意を要する。最近ではウコンで肝障害が、コンフリーで肝障害や肝臓ガンが、細辛、木通、防已、木香などアリストロキア酸を含有する生薬で腎障害が報告された。また、不純物やホルモン剤、劇薬の混入や粗悪品などの問題も多く、無邪気に安全、安心、体に優しいとはいえない。漢方の専門家のなかから「副作用はない、あるのは不適応」という声が聞かれる。「副作用は腕が未熟だから起こるのだ」、「自分は専門家だから間違いはない」とでも言いたいのだろうか。未知のものについては危険性への警戒が必要であるが、安全だという信仰では危険の察知ができない。

薬用人参の科学的な研究報告は膨大な量になり、その薬理も様々なものが知られている。しかし、薬理効果をそのまま治療効果に結びつけることはできない。あくまでも可能性を示唆するに過ぎないし、濃度や品質、投与法などの課題も残されている。主成分はジンセノサイドと言われる28種のサポニンである。動物実験で中枢興奮、抗ストレス、抗潰瘍、抗疲労などが認められ、逆の作用を持つ中枢抑制、精神安定の成分も知られている。他にも抗脂血症、血糖降下、抗炎症、抗ガンなどの作用が報告されている。これだけ多くの薬効はまさに「万病の薬」に相応しいものといえる。どのような病気が向かってきても対処する効能が出番を待つ。しかし、薬理と実際の薬効との乖離は大きく「医者要らず」とはいかない。漢方処方に配合するときは、弱った胃腸を奮い起こし、いくらかの滋養強壮を促すために用いる。これくらいの役割が妥当なところだと思う。一般の人々が薬用人参に抱くイメージは、そのまま、販売のための方便となっている。最高級、高貴薬、究極の仙薬、奇跡の薬効、、医薬品では過大な広告は禁じられ、健康食品では法律上、薬効の標榜はできない。そのため婉曲な説明によって薬効や症例を伝える。研究報告を示し、あれも、これもと効能を追加するのは科学の体裁を借りた捏造に等しい。反面、薬は効能・効果だけで用いるものではない。患者の不安を解消し、希望に向かうように、根拠不明の効能を追加することがある。これは責められるべきであろうか?患者と真剣に向き合う治療家ならばこの狭間で葛藤するだろう。

 

サメ軟骨エキス

漢方では各種の動物生薬を用いる。前項で述べたように動物においても、色や形や生態などの特徴から効能を類推した。科学技術が発達すると類推されたものがより真実味を帯びてくることがあり、真実味を演出する道具も揃ってくる。サメの軟骨エキス又は牛の軟骨エキスを内服することでガンを治そうというものだ。サメ軟骨末、エキス顆粒、濃縮液など数多くの製品が販売されている。ほかに深海サメ肝油エキスなど見かけるが、成分としては別物になる。軟骨にはタンパク質やコラーゲン、カルシウム、マグネシウム、リン、アミノ酸、ムコ多糖類(コンドロイチン)が含まれる。中華料理のフカヒレスープと同様の成分と考えて良い。1992年に出版されたレイン博士の「サメはガンに罹らない」という著書が発端になった。しかし、発症率は低いものの、サメもガンにかかるし、軟骨でさえガンに侵される。ガンに罹らないという着想から軟骨に注目し、その理論的基盤を本物の科学者の研究から築き上げる。ガンは自らの維持・成長に新鮮な血液と酸素を必要とし、そのための脈管を形成する。試験管内の実験で軟骨の蛋白質がこの脈管の形成を抑制することが確認された。しかし、試験管での実験を直ちに生体に適応はできないし、内服では消化管で吸収できないため有効とはいえない。注射剤で投与すればサメの蛋白質でアレルギー反応を起こす恐れがある。また中立的な研究者が行った正当な対照実験でも、ガン治療に有効であるという結論は得られなかった。希少ではあるが有効例もいくつか知られている。症例を根拠に治療を行うのは西洋医学に於いてもありがちな事である。

吸収が良好なようにと、「小さな分子」にした「高濃度」のサメ軟骨エキスも発売されている。正当な科学が認めないものを支持する学者、企業、またそれを利用する消費者は絶えることなく存在する。いまではガンばかりでなく、サメの生命力にあやかり、不老長寿、抵抗力・免疫力増強、ムコ多糖体による関節痛やシミやシワなどの改善を謳っている。落語に葛根湯医者というのがある。

   「先生、頭が痛いんですが」
   「頭痛ですな。葛根湯をお上がり」

   「先生、お腹が痛いんですが」
   「腹痛ですな。葛根湯をお上がり」

   「あなたはどこがお悪い」
   「私はつきそいに来ただけです」
   「まあいいから、葛根湯をお上がり」

なんにでも葛根湯を適用する医者の話だが、サメ軟骨エキスが効かない「ではもっとたくさんサメ軟骨を..」、眠れません「サメ軟骨を..」、アトピー性皮膚炎です「サメ軟骨を..」、ケガをしました「サメ軟骨を..」、サメ軟骨を飲んで胃が悪くなった「サメ軟骨を..」、などと言うことになる。限られた数の食品や薬草しか手持ちがないと、その限りで何にでも適用しようとするし、適用する理屈はどこからか生まれてくる。幸い、漢方薬店には500種の薬草がある。最低でも500回の試行と、混合すれば更に膨大な回数の試行が可能となるが、実のところ「サメ軟骨を..」と似たようなものである。

 

光照射療法

器械を用いる療法は現代医療でも盛んに行われ、科学技術への信頼も相まって根強い人気を誇っている。器械は一旦購入するとあとの経費は電気代だけなので、効果があれば安い買い物と考える人もあるだろう。光を照射する治療は現代医療にも取り入れられ、冬季の日照不足によって起こる季節性情動障害(SAD)や軽度の抑うつ症に用いられる。A.カミュの「異邦人」には「太陽がまぶしかったから殺した」と弁明する場面が描かれている。北国から南国へ、暗室から屋外へ..と移動したとき太陽の輝きに躊躇や高揚を覚えた経験がないだろうか。空気や水と同様、光が必要なことに科学的証拠など要らない。しかし、光の利用や治療への応用は慎重かつ科学的証拠に基いて進めるべきである。精神世界の分野になるが月の癒し(ムーンヒーリング)というのがある。月の光のリズムに生命の営みを見出すものだ。月は闇に浮かび、その神秘性は人の内なる闇と呼応するのかも知れない。また、月経の周期が28日というのは偶然か必然かは定かではないが、月・太陽が陰・陽の関係で自然に影響を及ぼすような気はする。古くから用いられた太陰暦は現在も利用されているし、一定の科学的な根拠も認められる。

植物は光合成で光の恩恵を受ける。動物では光のサイクルに反応する体内時計が知られている。昼夜のリズムが狂う時差ボケ、北の高緯度地域の人々に見られる冬季うつ病、さらに自律神経やホルモン系にも多くの影響を及ぼしている。また日照不足によるクル病、逆に日照過剰による皮膚ガンなどもある。精神科医は季節性情動障害(SAD)や睡眠障害に、部屋を明るくするライトボックスやライトスタンドを利用する。100Wの電球では500luxくらいの光しか得られないがライトボックスでは5000〜10000luxの光を取り込むことができる。20cmほど離れ頭部と目を光の方向に向け約1〜2時間を過ごすことで生体リズムを調節する。他に起床前30分くらいから徐々に光を明るくしていく方法や帽子にライトを仕込んだ装置などが用いられる。紫外線は発生しないので副作用は殆どなく、あえて言うならば強力な光への違和感や人によっては目の乾燥、眼精疲労、頭痛、イライラ感が起こることがある。もともと日照不足を補う手段なので自然光に勝るものはなく、自然光を浴びる努力を惜しんではならない。以上が現代医療で有効性が確認されている治療法である。

ところが、代替医療での光照射療法は道具も効能・効果も趣を異にしている。波長の異なる紫外線やレーザーを用いたり、赤、青、紫などの光線やその発光パターンを変えたり、直接目に当てたり..など、治療家特有の理論によって為される。骨軟化症、骨粗しょう症、変形性関節症、アトピー性皮膚炎、花粉症、動脈硬化、糖尿病、種々の免疫異常性疾患、がん、腫瘍..と、病名の羅列はとどまることを知らない。ガンも治るのだから風邪や頭痛、軽い自律神経失調など朝メシ前とでも言わんばかりである。これらの疾患への適用は臨床的に立証されたものではない。現代医療では既述した程度の期待しかもたれていないのだ。ものを勧めるとき、できる以上のことを言う人はしばしば見かける。そのなかで、できることしか言わない人は貴重である。さらに、できないことをも明確にし得る人は稀であるが高貴な存在だ。

 

波動療法

代替医療を正統な医学教育を受けた医師が行う場合がある。患者は現代医療より更に高度できめ細かな治療を受けられるものと錯覚する。最新の器械や難解な治療理論を駆使し情緒に訴えられるとひとたまりもない。根拠などなくても「要は、治ればいいのだ!」という議論はしばしば繰り広げられる。「科学的証明ができないから非科学的とはいえない」とはごもっともな理屈であるが、本質を解明しないままの療法では治療家や業界だけが得をする構図になってしまう。治癒機序も不明なまま「良かった」と思われる少数の人々の背後には、はるか多くの人々が治癒どころか被害を受けたり、無意味な出費を強いられる現実があるのだ。話は変るが、新薬の脳血流改善剤(痴呆薬)は根拠不明のまま「なにがしかの効果がある」として使い続けられ、再評価で効果ナシとされた。広く一般の医師に用いられ、それまで年間1300億円もの医療費が浪費された。現在行われる様々な薬や療法についても検証を怠るわけにはいかない。「波動」という言葉を聞いたら「まず疑う」ことを提言したい。これは物理用語ではなく、オーラとか霊媒などを意味する霊界用語である。物理では地震波や音波、電波など単なる波を指していう。私たちが普段用いる「波動が合う」、「波動を感じる」というのは霊界用語に近い。霊媒を想定した、いわば仮説というべき波動が科学技術の技術だけを得て体裁を整える。仮説の証明も果たせないまま、器械や症例だけが一人歩きを始める。

波動は「気」と言い替えても良い。気功、鍼灸、漢方など気を扱う治療家は、気を意念や感覚によって認知しようとする。あるはずだという思いは、あるようだと感じるようになり、やがて確かにある、という信念にまで高められる。そのうえ、これを目視できるなら自らも患者も納得させることができ、それは科学的でないにしても証拠となり得る。普通、気の検知はサーモグラフィーや脳波などを介して行われるが、ここでは波動測定器というものを用いる。日本では、1989年、MRAという波動測定器が最初に紹介されて以来、EAV系、ラジオニクス系、MRA系国産型、ソフトプログラム型など多くの製品が登場した。価格も数十万〜数百万円とかなり高価なものだ。真っ当な技術者は、皮膚の電気伝導度を測定する程度の回路しか備わっていないという。私が見た測定器は片方の電極を験者が触れ、もう一方で被験者や被験物の電位らしきものを測定する。これで体の悪い部分や病気の原因を究明しようというのだ。そして不思議なことに、それらしき数値が出てくることで迷いは一層大きくなる。さらに、波動を整えたり流れを強めたり、自分の波動を他のものに転写できる波動転写機を用いる。病院、医院をはじめ薬局、鍼灸などの治療所で見かけることもあり、用途は様々である。波動分析によって適切な薬を選ぶ。薬を波動水で服用させる。波動転写により脱ステロイドを試みる。医療の分野だけに限らず、食品業界では添加物や農薬、重金属の含まれる悪い食材の排除に、農業の分野では良い波動を示す有機作物の生産などに利用される。また、薬効や効果の認定されいない健康食品や健康機器に「お墨付き」を与える道具としても盛んに利用される。波動計の周辺には似たような機器がいくつかあり、いずれも波動計の正当性を確認できるような仕組みのもので、一般の医療機関では殆ど用いない。

東洋医学を中心に代替医療で用いられるO-リングテスト(正確にはバイディジタルO-リングテスト)は、多くの医師を集めた研究会まである。これは、波動測定器のローテク版である。指で輪を作りその力の強さで病気や有効な薬物を探知するというものだ。普通の世界に生きているなら、指の力で検査機器に負けない検査ができるとは想像もつかないが、意外にも「良く当る」らしい。研究会の先生の報告を聞いて、一度は試みる価値が...と考えたこともあったが、懐疑心のある者には良い道具となってくれない。指だけで済むなら費用もかからず場所も選ばないので、騙されても被害は少ない。しかし、治療の重大な分岐点や危機が迫っているときには正当な治療に頼るべきである。「手術は嫌だ」、「入院は嫌だ」と言っているうちに怪しげな治療家や健康食品が歩み寄り「手術しなくても治る」と甘くささやきかける。その結果、最後には自分が最も苦しむことになるのだ。O-リングなら隠し芸にもなるが、器械の購入を勧められたり、器械の指示する食品やサプリメントを勧められるなら金銭共に被害を蒙ることになる。健康食品の販売で警察に摘発される業者のなかには「波動」の絡んだ例がかなりある。

 

代謝療法

江戸時代の漢方医・吉益東洞は「万病一毒」説を掲げ、病気の原因をすべて「毒」によるものとした。臨床検査や画像診断ができなかった時代は、五感による診察で治療を行うのが精一杯であった。見えない病因を「毒」と想定したのもうなずける説である。ところが、今の時代にも「毒」という病因は生き続けている。一般の医療機関でも説明のため解毒、排毒などの言葉が用いられる。最新の医学用語や病理概念より、伝統的で解りやすい説明は根強く支持される。そして、多くの代替医療はこの古典的な病因や治療理論が基礎となっている。病因の異なる様々な疾患も畢竟「毒」という観念のもと診断・治療が行われる。細部に相違はあるものの、治療家はルーチン化された治療法に従い葛根湯医者のように、あらゆる疾患に信念の療法を適用する。代謝療法などの生物学的療法系は現代医療と代替医療の双方の特徴を備え、医師、歯科医師など医療有資格者によって行われることが多く、一般の医療機関から見放された重症疾患や末期ガンの患者が集まる。医師が行うため治療も侵襲性を伴うものがあり、費用も高額になり、抵抗力の落ちている患者が通常医療から離れることの問題や、的外れの療法による被害が心配される。

医師もまともな医師ばかりではない、素行のことではない。その治療について奇妙な理論に取り憑かれた場合のことだ。頭脳明晰で技術も卓越した医師が、なぜ常識とされるものに目を背けるのだろう。まともな西洋医学の理論が基礎としてあるだけに、一般の人々が惑うのも尤もである。診断は現代医療の検査とともに、特殊かつ奇妙な器械などを用いて為される。診断は異なっても病因は「毒」なので治療は似通ったものになる。代替医療ガイド(1)で述べた歯科療法は歯の充填剤を「毒」とした。このように治療家によって「毒」とするものが異なっているが、食物や水、環境汚染、化学物質などがおおよそ標的とされる。清浄な食材や環境によって体内を浄化したり、サプリメントで排毒させて免疫力を高めると言う。並行して行われるのが、次項に述べる物理的に毒素を排除する腸管洗浄だ。

現代医学で病因不明とされながら不調は続く、このような疾患に明確に「毒」という病因を与え治療を行う。また、病因は明確だが不治の病とされる疾患に「毒」という別の病因を与え、新たな治療を希望あるものにする。ここに支持者は救いを見出すのだと思う。

 

腸管洗浄法

解毒・排毒療法の中で、物理的に毒を排除するのが腸管洗浄法だ。便秘や食滞で起こる不調や疾患については古くから浣腸で排除する治療が行われ、現在も続いている。ところがこれを健康の維持や様々な病気の治療に利用しようというのだ。1890年代にアメリカで紹介されたのを皮切りに全世界に広まり、日本でも専門のクリニックが開設されるほどになった。アメリカの食事は蛋白・脂肪を中心とし、繊維が少ないことから便秘を引き起こしやすい。食事内容の反省とともに体内に長期に残留する宿便という「毒」を想定する。便秘によって肌荒れ、吹き出物、頭痛、のぼせ、痔などが起こることはすでに一般用便秘薬の効能・効果に記載されている。しかし、便秘によるこれ以外の疾患はまだ認められていない。美容といえば、命を削ってさえも美しくありたいと願う女性の心を捉える。

クリニックで行われるのは、腸内洗浄の機器を用い腸の中に35度〜37度の温水を注入し、腸内に溜まった宿便を洗い流す方法である。通常60分の洗浄時間となり、初回実施後4〜6週間以内に更に3〜4回、その後は2〜3ヶ月ごとに月に1回程度実施する。また個人で行うためのキットが洗浄液とともに販売されている。コーヒーやお湯や石鹸水を用いる場合もある。これによって有害物質である宿便を除き、腸内細菌のバランスを良好にする。洗浄操作ができない人や抵抗のあるひとは、便を軟化させたり、便通を促す薬品が配合された内服の腸管洗浄剤も準備されている。便通を快適にすることに異論はないが、彼らが「毒」と主張する宿便の存在は認められていない。食中毒や薬物中毒で早急に毒を排除するための、胃洗浄や浣腸は普通に行われるが、あらゆる病気に適応はできない。各種代替療法に於いて食事、薬草、心理療法、手技などが不十分なとき、腸管洗浄を試みることで毒を排除したという治癒へのイメージが喚起されるのかも知れない。

衰弱した病人や腸疾患の人には勧められない。また器具や洗浄液の清潔さは確保されなければならない。洗浄後、アメーバー性赤痢での死亡例が報告されている。頻繁に洗浄を行うことで腸管を傷めたり、逆に腸内細菌のバランスを乱す恐れもある。飽食状態にあれば、時には一食抜いたり、あるいは1日くらいの断食はお勧めしたい。また便通が得られないときは積極的に排便を促す下剤の使用も検討しなくてはならない。費用負担や危険を冒してまで腸を洗う利点は認められない。

 

酵素療法

酵素は大きく3つに分類される。消化酵素は約22種が知られ、蛋白質、炭水化物、脂質など食物の消化に不可欠の役割を果たしている。代謝酵素は新陳代謝、解毒、免疫機能に関与する。これらとは別に食物に含まれる酵素が知られている。健康であれば、酵素は普段の食物から摂取され、体内でも産生されるため、補充の必要はない。ところが酵素療法では酵素の役割を過大に評価し、過剰なまでの服用を促す。それによって免疫力が高まるという。酵素療法を提唱したHowellは「酵素は全ての生命機能を創り出す物質である」と言い切っている。現代医療では消化不良についてのみ消化酵素剤を投与するが、酵素療法ではガンやウイルス感染症にまで適用を広げる。酵素を製造・提供する企業が絡んでいるだけに、適用の拡大は利益に直結するものだ。非合法であっても、何某かの病名を唱えるだけで利用者の数は瞬く間に増えていく。

使用する消化酵素はアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼで、代謝酵素はSOD(抗酸化酵素)とカタラーゼを用い、適宜、パパイヤ、バナナ、アボガドなどの食物酵素を追加することもある。通常、サプリメントとしてカプセル、錠剤、パウダーそして液状のものが流通している。液状のものは極端に糖分の多いものがあり、血糖の高い人は注意がいる。伝統食である発酵食品から得れた酵母菌類のサプリメントも類縁のものと言って良い。体や通常の食物に備わった物質は副作用に対する警戒心が薄く利用への抵抗も少ない。

酵素を用いて湿式で顆粒剤を試作したことがある。完成品は酵素の力価が1/10に減少していた。製造法や剤形によっては無効に近いものもあり、消化の役にすらたたない。科学的根拠に基づいて行われる酵素療法、免疫療法などとは一線を画しておくべきである。代替医療で言うところの波動が物理学用語と異なるように酵素や免疫の意味も、また解毒や排毒、癒しや治癒の意味までもが代替医療特有のニュアンスを含んでいる。

 

飲尿療法

これだけはやりたくないという療法の代表選手である。これだけはやりたくないからこそ治癒力を刺激するのだと思う。漢方にも「奇方」と言い妙な物を用いる療法がある。

   小便:打撲損傷によって、悶絶したもの、高い所から落ちて仮死状態になった
   ものなどに、口を割って小便を服ませるとたちまち蘇生する。小便は童便
   (小児の尿)の事で打撲に良いとされている。民間でも打撲したところを小便
   に浸す療法があるが内服の方が良い。

上記のような場合に小便を用いるが、一つに、緊急又は異常事態に遭遇し手をこまねいて見ているわけもいかず、というときの対処法でもある。奇方にはこのほか、ナメクジ、糞便、蜂の巣、ミミズ、モグラの黒焼など様々なものが利用され、手元に薬品がないときや、治療に行き詰った時の打開策として伝えられている。尿を薬として用いることは古くから行われてきたことであるが、近年新たな装いで飲尿が表舞台に登場すると物珍しさも手伝い、にわかに愛好家が増えた。尿は糞便と異なり、血液成分や体に必要な成分や情報が含まれているという。この考え方は極微量の成分に薬効を求めるホメオパシーの理論に通じるもので、極微量どころか波動とか情報とでも言うべきものだ。根拠は明らかではないが、この情報を察知するセンサー細胞が咽の奥の部分にあり、不調の情報があれば反射的に自然治癒力を発揮する。他にも、尿成分である尿素、微量のホルモン、流れ出た抗体、そしてプラシーボ効果などが治療理論としてあげられる。免疫力が高まることで、軽度の風邪から重病のガンまで治療の対象となる。理屈を追求した挙句に飲尿があるのか、最初に飲尿ありきで、あとから理屈がついてきたのか知る由もないが、プラシーボ効果とするのがもっとも妥当なところであろう。

飲尿は「朝一番の尿」がより効果的といわれる。予防目的には、コップ半分(100ml)程度、ガンや慢性疾患の人は、コップ1杯(180ml)程度を飲み、適宜増量しても良いとされる。雑菌が入らないように保存は不可で、その都度飲む。気持ち悪いだけで副作用はなさそうな気がする。飲尿を行った知人の話では、最初、本を読むまでは「信じられなかった」という。本を読み終える頃には実行への気持ちが高まり、まさに「小説は事実より奇なり」である。バイブル商法という見え透いた嘘を信じる人も少なからず居るが、言葉や文章で人を動かす才能は羨ましい限りだ。ある患者さんの話しになるが、代替医療の下地もない一般の医師がこの療法に取り組んだ例がある。そこに入院中の患者さんにことごとく飲尿をススメたという。「飲めない」と拒否したその患者さんは、鼻腔からチューブを用いて尿を流し込まれた。その夜、奇妙な妄想にうなされ徘徊し、翌日、その記憶すらなかったとのことであった。飲尿の副作用とはいえないが、断固嫌なことを断固行われた精神的ショックが大きかったものと思われる。医師は臨床の現場で絶対の権力者として振る舞い、他から異議を差し挟む余地すらない。このような状況を容認する医療機関はしばしば存在し、医師の独走の危険性が懸念される。また、一定数の支持者や信者のいることが事態をますます複雑にしている。

 

【用語解説】

ホリスティック医療

これから述べる4つの用語は「言葉の綾」を気にしない人にとっては無用のものかも知れない。じつは私も明確に区別がつけられないでいる。扱う内容は同じでもそれに取り組む姿勢やスピリットが違うとでも言いたげである。少なくとも私は、従来のように現代医療(または西洋医療)に対する代替医療という概念で考えていきたい。

「ホリスティック」とは、ギリシャ語で全体を意味する「ホロス」からきた言葉である。人間は霊的な存在で、身体と心、環境全体との関係でとらえ、医療に於いても全体的・統合的に把握し治療するべきだ。西洋医療、中西結合医療、統合医療をさらに「包括する医療」だという。個性や環境を重視し自然治癒力を生かす療法であれば洋の東西を問わず利用する。あくまでも患者が中心で、治療家はその援助者として適切な助言を行う。さらに、病気を魂の高みへ向かう「気づき」とするところなど精神主義的傾向が強く、治療家は技術以上に哲学が求められる。

現代医療の医師は病院やクリニックで多くの患者と応対する。1時間待ちの3分診療も珍しくない。このような現状で患者の個性を尊重し、十分に話しを聞き説明をする余裕など皆無であろう。それを要求するなら苦痛と不安に耐えて待つ、他の患者に迷惑を及ぼすことになる。「数人の患者で経営が成り立つなら問診にも時間をかけられるのだが...」との声も聞かれる。現代医療では再現性と効率性を重んじ問診の時間は多くを要しない。だからこそ多数の患者を的確にさばきうるし、昏睡の患者、瀕死の事故に対応できるのだ。すべての病院がホリスティック医療を実践するなら、医師も医療機関も相当数整備されなくてはならない。全人的医療とは響きは良いが多くの病人は現代医療の病院で治療されることを忘れてはならない。時間をかける医療が質の高いものとは言えない。患者との会話はケアーの一つになりえても、効率よく病状を把握する最善のものではない。医師と患者の病気に対する考え方の隔たりは大きく、こと細かな訴えに「聞かれたことだけに答えてください」と促されるときがある。この隔たりを乗り越え全人的医療を目指すには時間と労力と費用がかかるに違いない。ホリスティック医療に患者が集まり始めると次第に話を聞く時間が減少し、ときにはスタッフに丸投げ、治療もルーチン化されるだろう。理念だけを掲げたホリスティック医療ならば意味はない。

 

補完医療

代替医療もしくは補完医療という表現はしばしば聞いたが、語源やニュアンスの違いまでは思い至らなかった。現代医療の代わりをするものが代替医療で、現代医療の不足を補うのが補完医療くらいの認識しかなく、結局いずれも同じことではないかと考えていた。調べていくうちに、この両者を結合させた代替補完医療学会の存在を知る。

   日本補完代替医療学会では、[現代西洋医学領域において、科学的
   未検証および臨床未応用の医学・医療体系の総称]と定義しています。
   アメリカでは、alternative medicine(代替医学)またはalternative and
   complementary medicine(代替・補完医学)という言葉が使われています。
   また、ヨーロッパでは、complementary medicine (補完医学)という言葉が
   好んで使われることが多い様です。しかし、なかには現代西洋医学と同等
   かあるいはそれを凌駕する医療が存在する以上、当学会はalternative
   medicine(代替医学)という用語を用いることとしました。いずれにせよ、
   通常の医学校では講義されていない医学分野で、通常の病院では実践し
   ていない医学・医療のことです。

要約すると、どちらの呼び名でも構わないが、「通常の病院では実践していない医学・医療を言い、本学会では”代替医療”という用語を用いたい」ということになる。通常の医療とは?おそらく保険制度では認められない治療を指すものだろう。医療行為で臨床的実証を得ないものという定義もあり、保険制度で認められている漢方薬は不可解な存在といえる。アメリカは国民皆保険制度ではなく、医療費も高額で病気は即経済的問題と直結するため、健康維持への関心が高いという。食を以って病気を予防するベジタリアンやサプリメントの人気はこのような事情に負うところが大きい。文明が成熟すると病気に於いても治療より予防という思想が芽生え始める。また、それを煽ることで消費を拡大しようと画策する人々が現れる。消費ばかりを言うのは本意ではないが、静かに家に籠っていても何かとお金のいる世の中である。通常医療の隙間を埋めるとして乱立する代替医療のなかには、明らかに金銭的利益を目的としたものが紛れ込んでいる。

 

統合医療

既述の用語より、後で唱えられたのは明らかである。代替、補完、相補、ホリスティクなどの医療を更に一歩前進させ統合医療(Integrative Medicine)と呼ぶ人々が居る。前進とは彼らが言っているに過ぎない。理念や取り組みを窺うと、言いまわしが異なるだけでなんら前進しているようには思えない。単なるセクト主義ではないのか。言葉だけが前進し、肝腎なものが後退することは世の常である。私は統合医療と題する本を一冊だけ読んだ。それには臆面もなく「ガンを防ぐ、ガンを治す」と書かれていた。内容はともあれ死亡率一位のガンを軽々しく扱いすぎている。

理念はホリスティック医療に似ている。個人の環境を考慮し症状に深く耳を傾け、多面的に診断し、西洋医学を含めたあらゆる療法や医療システムを検討し、最適で人に優しい療法を提供する。単なる「寄せ集めの医療」ではなく、安全で心地よい治療を目指して先端的医療に代替医療を組み合わせながら作り上げるという。あまりに長いフレーズは広告向きではないが、先端医療の侵襲性やリスクを安全で心地よいといえるのか?「手術や検査が嫌だ」といえば個人の声を重んじそれをやめるのだろうか?最適の療法を拒否されたら、容易に別の療法へと移行できるのか?寄せ集めでないなら「医療の雑貨屋」ではどうだろう。私は、統合医療という用語は用いない。やがて統括医療、総合医療、統一医療、包括医療などの分派も現れよう。もう既にあるのかも知れない。

個人の重視は結構なことだが患者への迎合は注意がいる。患者もまともな人ばかりではない、病室で酒を飲む、間食、煙草もする。患者が望む快適な医療は甘えと表裏一体のものだ。それを容認することになれば医療スタッフや他の患者さんとの協調も危ぶまれる。これこそ全体の医療に影響を及ぼしかねない。傍若無人の振る舞いに、時には毅然と向かい合わねばならず、医療機関においても社会の縮図が見て取れる。我慢すること、規律を守ることが医療の現場でも問われる。

 

代替医療

正統的・科学的理論や方法論又は治験にもとづかない健康法や治療法を代替(オルタナティブ、alternative)療法と言う。一般的に無害無益とも評されるが、時には有害無益、無害有益、有害有益も見られる。この中で、無害有益のものならば現代医療を凌ぐ療法ともなりうるだろう。代替の意味からすると、現代医療にとって代わるものでなければならないのだが、現状は補足、補完、隙間医療の域を出ない。代替医療は信仰ともとれる形而上学的方法論が科学的検証を受け入れ難くしている。治療家は科学や正統な学問を軽視し、独自の信念や理屈に頼ろうとする傾向がある。自らの信念に合致したり、沿う証拠だけを集め、望ましくない証拠を捨象する。信念はより強固になり筋金まで入ってくる。こうして治療家は自らを神格化し「治療の失敗を認めない」までになる。排毒だ好転反応だ、患者が指示を守らなかった、もう少し早く治療を始めるべきだった...など、その場逃れの理屈を繰り出す。

現代医療は数値や画像を根拠とするため、体調がすこぶる良好でも異常を伝え、逆に体調険悪に対して異常なしの判定を下すことがある。一方代替医療の殆どは検査機器など用いないため、患者の気分や訴えの良し悪しで有効、やや有効、無効の判定を行う。有効と思われ客観的なデーターも好転しているなら問題は少ない。しかし、気分の改善が苦痛を見えなくし事態が深刻になりつつあるとき、治療家は為す術を知らず失敗を認めない。無害無益の治療であっても病気だけは進行、悪化していくのだ。患者側が懐疑心を持っておけば防げることでも、治療家への信頼や帰依が正当な判断を妨げる。

現代医療では、治療の挫折、不都合が生じたときチームを挙げて解明し問題の克服に当る。不幸にも有効な対策が得られないときは対症療法を提案する。重篤なケガや事故の殆どは現代医療を以ってしか救えないし、抗生物質で感染症を克服し命を長らえ、血圧降下剤で天寿を全うする。医療の恩恵の多くは現代医療によってもたらされるものだ。現代医療では忙しさのあまり患者との語らいを欠くことが多い、しかしそれを軽視しているわけではない。医療事故の心配や手術、薬物の副作用のリスクは負うが、生き延びる人も断然多いことも忘れてはならない。代替医療では治らないものにも希望だけは失わせない。もう一度歩いてみたい、酒を飲んでみたい、家族と過ごしたい...ささやかな希望は生きる糧となる。これなら、現代医療の医師や医療スタッフのわずかな意識改革で実現できそうに思う。代替医療で出来ることを知り、その利点に学ぶならばより良い医療が提供されるだろう。

>>代替医療ガイド(1)

 

BACK