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平戸瀬戸の捕鯨(第1部) |
平戸市周辺の海域は、昔より、古式捕鯨の盛んな地域でした。その中で最も隆盛を極めたのが、生月町でした。
今回、第1部として、平戸市と田平町とで挟まれた、平戸瀬戸の捕鯨について、第2部で、生月町の捕鯨について、その生月町で、生月町「島の館」の学芸員をなさっていらっしゃる、中園さんに紹介してもらいました。
第2部「生月島の捕鯨文化」に行かれる方はここ
中園成生(なかぞのしげお) 1963年、福岡市生まれ。熊本大学文学部卒業。民俗学専攻。現在、平戸市生月町博物館・島の館学芸員。主要な研究テーマは、生月島の代表的な民俗文化である捕鯨とかくれキリシタン信仰で、その他、西海各地の漁業や祭礼などの調査研究を進めている。 〔主な著作〕 ○『生月島のかくれキリシタン』生月町博物館・島の館 2000 ○『くじら取りの系譜』長崎新聞社 2001 ←2008年4月地元(田平町)のお祭りにて |
平戸瀬戸は日本最古の捕鯨漁場だった
平成17年に合併した平戸の市域は、日本の捕鯨史上、特に重要な場所である事は間違いありません。
その理由を列挙すると、
第1に、古式捕鯨業時代に日本最大の規模に達した益富組の本拠地(生月島)であること。
第2に、江戸時代の初めに西海に伝播した突取捕鯨に、平戸の町人が海外貿易で得た利益をつぎ込んで、瞬く間に巨大産業に発展させたこと。
第3に、明治時代に導入された銃殺捕鯨法が、平戸瀬戸に於いて、国内で最も長い期間(65年の間)操業されたこと。
そして最後に、日本列島で捕鯨が行われた最古の場所である可能性が高いことです。
平戸瀬戸の東岸、吉善商店さんがある平戸口から1キロ程北西に行った所に、「つぐめのはな」という小さな岬があります。この辺りの海岸からは、以前からたくさんの石器が採集されていました。
・つぐめのはな遺跡跡-対岸が平戸市
昭和46年(1971)から行われた発掘調査で、縄文早〜中期中葉にあたる土器や石器などが出土しましたが、とりわけ石銛やスクレーパー(掻器)という石器が大量に出土しました。石銛とはサヌカイト(安山岩)という石で作られ、全長は大きなもので10センチ程で、先が尖り両側に広がりを持ち、根本が狭まった形の石器です。この石器は、西海各地の沿海部の遺跡からも出土していますが、どこも数点程度に止まっています。しかしつぐめのはな遺跡からだけは、数百点単位で出土しています。先が尖ったこの石器は、木の柄の先に付け、大きな獲物を突く用途で用いられたと思われます。
九州本土と平戸島の間に形成された平戸瀬戸の最狭部は、幅500メートル、水深20〜30メートル程の水道が3キロほど続いています。
ここは春に北の海に帰る鯨(上り鯨)が通過するルートになっていて、江戸時代の突取捕鯨や明治〜昭和時代の銃殺捕鯨の漁場でした。
銃殺捕鯨当時の聞き取りによると、鯨は海峡を抜ける時、潮流に逆らって泳ぐ習性があるそうで、平戸出身の作詞家・藤浦 洸氏(1898年生まれ)も、随筆集『平戸』の中に、次のように記しています。
「鯨は潮流にさかのぼる習性があるらしい。(中略)はげしい潮流にさからうと速度が落ちる。その潮流の上手では和船が舷を叩いて音をたてている。鯨はその音におどろいて回転して潮流を下るが、音が聞こえなくなると、また上って来る。その往復の間に幾度か潮をふくので、そこで待っているのが射手の勘であった」
縄文時代前期の頃は気候が寒冷で、今よりも海水面がかなり低かったため、今は波打ち際にあるつぐめの鼻遺跡も、かつてはもう少し高い場所にあったようです。反対にいえば、当時の平戸瀬戸は現在よりずっと狭く、また浅かったと思われます。そこを潮流に逆らってゆっくり進む鯨を、丸木船に乗って潮上で待ち伏せて銛で突き取ったと考えられるのです。
捕獲した鯨は岸に着けて解体したと思われますが、遺跡からパン箱数十杯分出土している石匙や鎌崎型などと呼ばれる膨大なスクレーパー群も、鯨を解体するのに用いられたと思われるのです。
ここで鯨の捕獲を行っていた縄文人は、曽畑式という形式の土器を用いていた集団(曽畑系縄文人)で、漁労など海での活動を盛んに行っていたようです。捕鯨を行うには、大勢の人手が必要だったと思われますが、もしかしたら、各地に分散して漁労を行っていた人々が、春の上り鯨のシーズンになると集まって、いわば祭りのように鯨取りを楽しんだのかも知れません。
ただこの捕鯨が、同じ時期に他の地域でも行われた形跡は、今のところ確認できません。それはここで行われた捕鯨が、前述したように、狭い海峡を鯨が通るという特殊な状況に立脚して成立しているため、他の海域で同様の漁を行うことが出来なかったからと考えられます。
当時の丸木船では、開けた水面で鯨を追うことも、銛綱を通して伝わる鯨の曳く力に長時間耐える事も、出来なかったと考えられるのです。さらに平戸瀬戸での捕鯨自体も、石器の出土などから推測すると、縄文時代後期には行われなくなっていたようです。
後期には温暖化が進み、またその影響で海面上昇が進んだことが、鯨の回遊と漁場の条件の両方に、影響を与えた可能性があります。
ただいずれにせよ、つぐめのはな遺跡は日本最古(もしかしたら世界最古と言い換えても良いかも知れません)の捕鯨の可能性を示す遺跡である事は、間違いない事実なのです。
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