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平戸瀬戸の捕鯨(第2部)
<生月島の捕鯨文化>

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 戦国時代の終わり頃から始まる古式捕鯨業時代には、日本列島沿岸部のなかでも安房、紀伊半島周辺、土佐、西海が主要な捕鯨漁場として栄えます。そのなかでも、現在の山口県から長崎県にかけて広がる西海漁場は、当時最大の捕鯨漁場として発展します。

 西海漁場における捕鯨業の始りは『西海鯨鯢紀(さいかいげいげいき)』によると、寛永元年(1624年)に紀州藤城の藤松半右衛門が鯨船10艘からなる突組で、生月島の東隣の多久(度)島を根拠地にして突取捕鯨法による捕鯨を行ったのが始まりとされています。その後、地元でも次々と突組が結成され、17世紀中頃には西海全体で73もの突組が操業するほどになります。

 生月島においては、万治元年(1658年)2月に平戸の吉村組が、上り鯨を対象とする春浦の操業を行ったという記録があります。また、正徳2年(1712年)春に小値賀島の小田組麾下の網組、平戸の津吉浦、小値賀島の潮井場浦とともに生月島で操業したという記録があり「生月工始めて網組遣ス」と記されています。

 生月島において島民を主体とする捕鯨業が本格的に始まるのは、享保10年(1725年)に舘浦の田中長太夫と畳屋(のちの益冨)又左衛門正勝による、12艘の鯨船からなる突組の操業からです。しかし、翌年には田中長太夫は経営を退いたため、畳屋家の単独経営となります。

 その後、享保14年(1729年)には根拠地を島の北部の御崎浦(みさきうら)に移し、さらに享保18年(1733年)には網掛突取捕鯨法を行い得る網組の編成にに移行することで経営の安定に成功します。その後、益冨組は西海漁場のなかで、当時屈指の優良漁場である壱岐への進出をはかり、元文4年(1739年)には平戸藩の仲介で、壱岐にある前目浦(芦辺町)と瀬戸浦(勝本町)の両漁場を、地元勝本の鯨組である土肥組隔年交替で使うように取り決め、壱岐で通常の2倍の規模にあたる網組(六結組)を操業させています。

 その後、五島や対馬など西海漁場の各地にも網組を出し、文政年間頃には5つの網組を経営する日本一の規模を誇る鯨組へ発展します。その前後には我が国における捕鯨図説の最高傑作と称される木版印刷による捕鯨図説『勇魚取絵詞(いさなとりえことば)』が益冨組の手によって刊行されています。
 しかし、益冨組の捕獲量は、弘化年間(1844〜47年)頃から減少し、明治7年(1874年)には、さしもの益冨組も捕鯨業を廃止するのにやむなきに至ります。小葉田淳氏によると、益冨組が操業した142年間に捕獲した鯨は21,790頭にのぼり、事業で得た収入も3,324,850両という莫大な金額にのぼったとされます。

 その後も生月島(御崎浦)の漁場における網組の操業は他の経営者によって続けられますが、不漁による経営不振は払拭できないまま、明治30年代に終焉を迎えています。昭和初期には、佐賀県呼子の小川島捕鯨株式会社所属のノルウェー式砲殺捕鯨船による出漁は2回ほど行われますが、継続的な操業には至りませんでした。

 一方、生月島民の捕鯨従事者の一部は、明治15年(1882年)から始まった平戸瀬戸を漁場とする銃殺捕鯨は、最終的には昭和22年(1947年)まで続けられています。
 
 しかし、生月島の水産業の主流は、明治38年(190年)に導入された和船巾着網の操業に移り、さらに昭和初期に網船が動力化され遠洋まき網の形態へと発展していくなかで、捕鯨は次第に副次的な漁業となっていきました。しかしその一方で、益冨組時代に唄われた勇魚捕唄(いさなとりうた)が、銃殺捕鯨の従事者を経て保存会に継承されており、また、鯨の煎焼(鋤焼)、ゆがき皮鯨、鯨膾などの料理も今日の暮らしの中にしっかりと根付いています。


西海と生月の捕鯨史

1616年(元和2年) 西国(西海漁場)にて始めて鯨組が来る
1627年(寛永4年) 紀州藤代の藤松半右衛門の突組が、度島(現・平戸市)に出漁する
1655年〜(明暦〜萬治年間) 西海漁場全域で操業する突組は73を数え、捕鯨を行わない浦は無いほどだった
1681年〜(天和〜貞享年間) 深沢儀太夫勝幸が紀州太地浦に赴き、太地覚右衛門より網掛突取捕鯨法を伝授され、西海漁場に導入する
1725年(享保10年) 畳屋(のちの益冨)又左衛門、田中長太夫と共同で生月島舘浦で突組の操業を開始する
1739年(元文4年) 壱岐に進出した益冨組、勝本浦の土肥組と、壱岐の前目、勝本の両漁場を交代で使用する取り決めをする
1832年(天保3年) 益冨氏、捕鯨図説『勇魚取絵詞』を刊行する
1882年(明治15年) 鯨猟会社、平戸瀬戸などで銃殺捕鯨を開始する
1898年(明治31年) ノルウェー式捕鯨船・烽火丸、呼子を拠点に九州や朝鮮半島の沿岸で実験操業を始める
1947年(昭和22年) 平戸瀬戸で最後の銃殺捕鯨組の操業が行われる


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